新唐書卷一百七十四 列傳第九十九 李宗閔

李宗閔

  • 字は損之、鄭王李元懿の四世孫。進士に及第、賢良方正で牛僧孺と共に時政を批判し宰相李吉甫に憎まれ洛陽尉に左遷された。裴度の彰義観察判官を経て駕部郎中知制誥、中書舎人。
  • 長慶初、銭徽の貢挙不正事件(宗閔の縁故者採用疑惑)で李徳裕・李紳・元稹に糾弾され劍州刺史に貶された。以後、徳裕との対立が40年に及ぶ朋党の禍の始まりとなった。中書舎人に復帰し貢挙で多くの名士を輩出(「玉筍」と称された)。太和中、吏部侍郎・同中書門下平章事。李徳裕の登用が進む中、宗閔が先んじて拝相し牛僧孺を引き入れ、徳裕派を排斥した。
  • 徳裕との朋党論議(文宗との対話:楊虞卿・張元夫・蕭澣を「党魁」と名指しされ、徳裕がその処遇を提案した際、宗閔は徳裕の外遷を根拠に反論するも論破された)を経て山南西道節度使に。
  • 李訓・鄭注が徳裕を排斥すると宗閔は復権し襄武県侯に封ぜられ専横を極めた。楊虞卿の弾劾を巡り訓・注の陰謀で宗閔自身も「駙馬沈𥫃・宮女宋若憲・宦官韋元素らと結んで宰相を求め、占い師に凶運を問うた」等の罪状で潮州司戸参軍に貶された。訓・注は権力を私するため政敵を宗閔・徳裕の党とみなし排斥、多くの人が連座した。帝は最終的に両派の姻戚・門生を不問とする詔を出し「河北の賊を除くより朋党を除く方が難しい」と嘆いた。
  • 開成初、幽州刺史元忠らの弁護で衢州司馬に軽減。楊嗣復が復権を図るが鄭覃らの反対に遭った(帝と覃・李玨・陳夷行・楊嗣復の激しい論争が行われ、宗閔は最終的に杭州刺史に)。太子賓客に転じた後、会昌中の劉稹の乱への連座(従諫との旧交)で漳州長史、封州に流された。宣宗即位で柳州司馬に転じ没した。
  • 機敏で当初は令名があったが、栄達するにつれ権勢を好むようになり、裴度に引き立てられながら後に徳裕を推した度と怨みを結んだ。韓愈は『南山』『猛虎行』でこれを風刺した。私党を厚くしたことが結局は自らの破滅を招いた。