新唐書卷一百七十二 列傳第九十七 杜兼

杜兼

  • 字は処弘、中書令杜正倫の五世孫。正倫に子なく兄の子誌静を後嗣とした。父の廙は鄭州録事参軍事、安禄山の乱で逃亡するも宋州刺史李岑の迎えを受けるが追手に殺された。兼は幼くして終南山に逃れた。伯父存介が賊に捕らわれ処刑寸前、兼が身代わりを申し出て両者とも助命された。
  • 建中初、進士高第、徐泗節度使張建封の府に招かれた。濠州刺史として3千の精兵を蓄え自立傾向を強めた。僚官の韋賞・陸楚を誣告で処刑した事件では中人が処刑を実行し無辜の死として非難された。令狐運を無実の罪で捕らえ李藩を陥れようとしたが失敗した。
  • 元和初、刑部郎中から蘇州刺史。李锜の反乱を予見し留任を進言、吏部郎中を経て河南尹。杜佑の後援で終始助けられ、聚斂と苛政を極めたがその時勢に恵まれ失脚することなく享年70で没した。蔵書1万巻を残し、散逸を不孝と戒める言葉を子孫に残した。

杜羔――兼の従弟

  • 貞元初、進士に及第。至情の人柄で知られた。父が河北で乱に死に、母は兵乱で行方不明となり羔は日々嘆き悲しんだ。兼の澤潞判官時代、獄事の中で類まれな対応を見せる老婆が羔の母と判明し扶養できるようになった。父の墓所は不明のままだったが、たまたま入った仏祠の柱間の文字から父自身が死の間際に記した墓所の記録を発見し、老人の証言も得て埋葬できた。
  • 元和中、萬年令として、長安令許季同とともに京兆尹元義方の過酷な徴税処罰に抗議、宰相への訴えで憲宗が中使を派遣し調査、両県吏は免罪、尹は3ヶ月分の俸給を減じられた。羔は正直者と評された。戸部郎中、振武節度使、工部尚書致仕。贈尚書右僕射、諡は敬。

杜中立――兼の子

  • 字は無為。蔭補で太子通事舎人。開成初、文宗が真源・臨真の両公主を士族に降嫁させようとし「我が家は200年の天子でも崔・盧に及ばぬのか」と述べ、宗正卿に世家の子を求めさせた。中立と衛洙が召見され著作郎に任じられ、まもなく光禄少卿・駙馬都尉として真源長公主を娶った。
  • 実務への意欲を求め太仆・衛尉少卿、左右金吾大将軍を歴任。京師の悪少年の横暴を厳しく取り締まり(自称「盧言京兆」の輩を杖殺)司農卿となる。厳しい法運用が中傷を招き慶王傅に左遷されたが、後に再任され「用法が厳しい」と問う帝に「近臣が名声保持で職務を怠るのが実情」と答え信任を得た。度支から司農への飧銭移管の不正(大吏の中間搾取)を制度改革で正した。
  • 京兆尹候補となるが宰相の意向で経験を積ませるため義武節度使に出された。滄州の水害対策(毛河への導水)で被害を防いだ。享年48で没し、贈工部尚書。厳格な吏務で部下に畏れられたが、連座で免官されても復帰後も態度を変えなかったという。