新唐書卷一百七十二 列傳第九十七 王智興

王智興

  • 字は匡諫、懷州温の人。若くして俊敏、徐州牙兵として刺史李洧に仕えた。洧が李納から離反した際、智興は徒歩で急使を務め徳宗に急を告げ、朔方軍5千の救援を得た。以後徐州の特別な将となった。
  • 呉元濟討伐で李師道が徐州への牽制を試みた際、節度使李愿の命で王朝晏の攻撃を撃退、豊北で姚海の5万を破った(美妾3人を得たが「軍中に女あれば必ず敗れる」と斬った逸話)。侍御史。
  • 元和13年(818年)李師道討伐で子の晏平・晏宰を先鋒に胡陵に進軍、金郷・魚台を攻略し御史中丞に昇進。
  • 長慶初、河朔用兵で武寧軍副使、崔群を節度使に嫌い監軍使に追還を密請するも、赦令で撤兵となった際、群の使者を強引に排除し軍情を口実に反対者を処刑、群を追い出して自ら検校工部尚書・節度使となった。財政難から泗口の税を新設。
  • 李討伐で宋州西部を破り検校尚書左僕射。李同捷の滄德反乱で3万の兵と5ヶ月分の糧を求め、検校司徒・同中書門下平章事・滄德行営招撫使として棣州を攻略。太傅・雁門郡王、侍中を兼ね、忠武・河中・宣武の三節度を歴任。享年79で没し、贈太尉。

王晏平――智興の子

  • 父の軍に従い李同捷討伐で検校右散騎常侍・朔方靈鹽節度使。父の喪に際し馬400頭・兵械7千を無断で持ち出し洛陽に帰り弾劾され康州に流されそうになったが、河北三鎮に助けを求め撫州司馬に軽減された。給事中韋温・薛廷老・盧弘宣らの反対で永州司戸参軍に変更され、文宗の諭しで沙汰止みとなった。

王晏宰――智興の子

  • 後に「晏」を除き宰とのみ名乗った。神策軍で頭角を現し、甘露の変で御史大夫兼を得て光州刺史。段文昌の推薦で鹽州刺史、法を厳格に運用したが民には不評だった。邠寧慶節度使、忠武軍に転じた。
  • 劉稹討伐で魏博の何弘敬の日和見を牽制すべく宰の忠武軍が派遣され、宰相李徳裕の指揮で天井関を奪取し賊党を動揺させた。徳裕の督戦要求(澤州攻略)に応じず子晏実に磁州を守らせた消極策を帝に叱責された後、陵川攻略・石会関突破で澤州を攻略、郭誼の投降と稹の首の献上を主導し太原節度使に至った。
  • 宣宗初、入朝し宰相職を求めたが周墀に弾劾され軍に戻った。吐蕃・党項・回鶻連合の河西侵攻で代北諸軍の指揮を任されるが病で赴任できず河陽に転じた。太子少保、少傅を経て没した。

王晏実――智興の子

  • 幼くして聡明で智興に養われ、諸父と並び称された。劉稹平定後、淄州刺史、終官は天雄節度使。