于頔
- 字は允元、後周太師于謹の七世孫。蔭補で千牛から華陰尉、侍御史。吐蕃との交渉使として応対の才を発揮。長安令、駕部郎中を経て湖州刺史。荒廃していた湖陂の堤を修復し3千頃の灌漑を復興、無数の未埋葬の遺骨を葬るなど善政を敷いた。
- 蘇州刺史として淫祠を廃し溝渠を浚渫するなど政績を上げたが、性は暴横で恩情に乏しく、前任の部尉を杖罰した恨みで観察使王緯の弾劾も徳宗に取り上げられなかった。大理卿、陝虢観察使では緯への皮肉を口にし専横がさらに増し、部下が虐待に耐えかね投身自殺する事件も起きた。
- 貞元14年(798年)、山南東道節度使。呉少誠の反乱に唐州から出兵し戦功を重ね、襄州を大都督府に昇格させるよう求め、独自に兵力を強化し漢南の専制を志向した。帝が姑息な融和策をとる中、頔の要求はほぼ通った。鄧州刺史元洪への誣告事件、判官薛正倫への理不尽な処遇、腹心高洪の横暴を止めようとした部将陳儀による洪の刺殺事件など専横は甚だしく、検校尚書左僕射・同中書門下平章事、燕国公。無断で鄧州を奪取しても帝は咎めなかった。当時の権勢は「襄様節度」と称されるほどだった。
- 憲宗即位で権力の締め付けを恐れ、子を公主に婚姻させることを条件に入朝、司空・同中書門下平章事。杜佑に倣い月3回の朝見を願い出た。
- 宦官梁守謙と子の敏が結んだ賄賂を巡るトラブル(正言なる者の家奴殺害)が発覚し、頔の吏や奴が投獄される事件が起き、頔と子らは自ら罪を待ったが門は開かれず、翌日ようやく宰相の諭しで帰宅を許された。恩王傅に貶され、敏は雷州に流される途中で賜死、次子季友も官を奪われるなど一族が処罰された。
- 後に戸部尚書に復し、蔡州討伐に家財を献じたが帝は辞退させた。季友の居喪中の宴を理由に金紫光禄大夫を削られた。致仕を巡っては宰相李逢吉の配慮で優遇されたが、鬱々として没し、贈太保、太常が贈った諡は「厲」。
- 『順聖楽舞』を作り朝廷に献じ、女伎による八佾の舞(『孫呉順聖楽』)も制作した。
于季友――頔の子
- 憲宗の永昌公主を娶り駙馬都尉。穆宗の狩猟に従った際、父の諡の改定を求め、徐泗節度使李も呼応したが、尚書右丞張正甫や右補闕高釴、博士王彥威らが「頔は擅に襄・鄧で軍を握り朝廷を脅かし、無実の者を殺し朝廷の使者を阻んだ人物で、腰領を全うできただけでも幸運だった、これ以上の諡は不当」と反対したが帝は聞かなかった。
于方――季友の関係者
- 長慶時、勲家の子として豪侠と交わり河朔の事に関わろうとし策を宰相元稹に献じた。李逢吉の党が執政を陥れようとする謀略に利用され、「稹が方に裴度暗殺を命じた」との濡れ衣を着せられ、取調べの結果無実と判明したが方は誅殺された。