新唐書卷一百六十六 列傳第九十一 杜佑
杜佑、字は君卿。京兆萬年の人。地方官・財政官を歴任し、建中年間には省官による財政改革を建議するなど実務に長けた。憲宗朝で同中書門下平章事(宰相)を務め、劉秩『政典』を基に『通典』200篇を撰した学者宰相でもある。享年78、贈太傅、諡は安簡。
杜佑
- 杜佑、字は君卿。京兆萬年の人。父希望は信義を重んじ、俊傑と交わった。安陵令のとき都督宋慶礼にその異政を表彰された。開元中、交河公主が突騎施に嫁ぐ際、和親判官に任じられた。信安郡王李漪の下で靈州別駕・関内道度支判官。代州都督から召還され辺事について奏対し玄宗に才能を認められた。吐蕃が勃律を攻めた際、鄯州都督・知留後に任じられ、隴を越えて烏莽の衆を破り新城を攻略、鎮西軍を設置し吐蕃を退けた。宦官牛仙童の不正告発に巻き込まれ恒州刺史に左遷されたが、後に仙童自身の不正が発覚し失脚した。門下に崔顥ら名士を招いた。
- 佑は蔭補で濟南参軍事・剡県丞。潤州刺史韋元甫の疑獄を的確に処理して才能を認められ、司法参軍から浙西・淮南の幕僚となった。工部郎中・江淮青苗使、容管経略使を経て、楊炎の下で金部郎中・水陸転運使・度支兼和糴使を歴任。
- 建中初、河朔での兵乱で財政が窮乏する中、「省用のためには省官」との建議を上奏。漢・魏・晋・隋の官員削減の先例を引き、開元・天宝の繁栄から一転した当時の戸口減少(130万戸のうち実収は300万人程度で、天宝の3分の1)を挙げ、旧来の官職名の形骸化を批判し、官職整理を主張したが取り上げられなかった。
- 盧杞に憎まれ蘇州刺史に左遷。饒州刺史を経て嶺南節度使として道路や排水を整備し火災を防ぎ、朱厓の反抗的な黎族を平定。尚書右丞、淮南節度使、母喪で辞任願うも許されず。
- 徐州節度使張建封の死後の軍乱を受け、検校尚書左僕射・同中書門下平章事として徐泗を討伐に赴くが戦果は上がらず、代わりに愔(建封の子)を節度使に承認し治めさせた。雷陂の開削による灌漑、海浜の荒地開墾で米50万斛を蓄え、軍備を整えたが、部下の不正(南宮僔・李亞・鄭元均)には寛大すぎ、帝により罷免させられた。
- 貞元19年(803年)、検校司空・同中書門下平章事。徳宗崩御に伴い冢宰を摂り、検校司徒兼度支塩鉄使。王叔文が副使として実権を握ったが、叔文が母喪で退いた際には郎中陳諫の人事を独断で処理し、叔文の誘いを退けた。憲宗の下でも再び冢宰を摂り、度支塩鉄を李巽に譲った。度支の煩雑な兼務を整理し職務を簡素化。司徒・岐国公。
- 党項が吐蕃と結んで乱を起こした際、征討を求める諸将に対し、周・秦の故事を引いて過度な征討は禍を招くと諫め、良将の慎重な統御を説く上疏を行い、帝に容れられた。
- 致仕を願うも許されず、3~5日に一度中書に入り政務を執ることとなり、光禄大夫・守太保致仕。元和7年(812年)享年78で没し、贈太傅、諡は安簡。
- 学を好み、貴顕の身ながら夜も読書を続けた。劉秩の『政典』35篇を基に補訂を加えた『通典』200篇を撰し、房琯にも劉向以上の才と評された。
- 人物評:温厚で人と争わず、後漢の胡広に比されたが練達・文才はそれに及ばなかったという。樊川に別荘を構え賓客と楽しんだ。晩年に妾を夫人としたことが批判された。
杜式方――佑の子
- 字は考元。蔭補で揚州参軍事から太常寺主簿となり音律を考定、卿高郢に称された。佑の拝相後、昭應令から太僕卿。子悰は公主を娶った。桂管観察使。弟從郁の病を看護し、死後は喪に服し篤行と称された。贈礼部尚書。
杜從郁――式方の弟
- 元和初、左補闕。崔群らが宰相の子であることを理由に配慮し秘書丞に転じた。終官は駕部員外郎。子は牧。
杜悰――式方の子
- 字は永裕。蔭補で太子司議郎。権徳輿の娘婿独孤郁への配慮の逸話がある。憲宗が岐陽公主の婿選びで大臣の子から選ぶよう命じた際、悰が選ばれ殿中少監・駙馬都尉。太和初、澧州刺史から京兆尹、鳳翔忠武節度使、工部尚書・判度支。公主薨去後の服喪規定を巡り李珏の進言で駙馬服喪の期間が制度化された。
- 会昌初、淮南節度使。武宗の伎女徴発要求に「詔を奉じずに与えるのは罪」と応じず断ったことで大臣の器と評価され、後に検校尚書右僕射・同中書門下平章事、判度支に至った。劉稹平定後左僕射兼門下侍郎。剣南東川・西川節度使、淮南節度使を歴任、旱害時の民の窮状の中「聖米」と呼ばれる漕渠拾い米の逸話を祥瑞と上奏する不明を見せた。
- 宣宗崩御時の後継争いで、鄆王(後の懿宗)擁立に慎重な立場を取り大臣を守った功で司空・邠国公。黔南観察使秦匡謀の投降と処刑を巡る一件で衝撃を受け病没、享年80、贈太師。
- 人物評:大議論には合うことが多かったが才は実務に及ばず、地位の割に自らを厚遇し人材を推挙することは少なく、「禿角犀」と揶揄された。
杜裔休――悰の子
- 懿宗時、翰林学士・給事中を歴任するが事件に連座し端州司馬に貶された。
杜孺休――裔休の弟
- 字は休之。給事中を歴任。大順初、銭鏐の弟銶が徐約を蘇州で破った後、昭宗が孺休を刺史代行に任じたが銭鏐の不興を買い密殺された。兄述休とともに死んだ。
杜慆――悰の弟
- 咸通中、泗州刺史。龐勛の反乱で城を包囲された際、処士辛讜の助言に従わず「将士と生死を共にする」として籠城を続けた。反乱軍の使者李圓の謀計を逆手に取り伏兵で殲滅、城を10ヶ月守り抜き、辛讜の外部連携もあって最終的に馬挙率いる援軍が到着し囲みが解かれた。乱後、義成軍節度使、検校兵部尚書で没した。
杜牧――從郁の子
- 字は牧之。文章に優れ進士・賢良方正に及第。沈傳師・牛僧孺の幕僚を経て監察御史、弟顗の病で辞官。宣州団練判官、殿中侍御史内供奉。
- 劉從諫・何進滔ら藩鎮の驕り高ぶりを憂い、山東の重要性を論じた『罪言』を著した。要旨は「山東(河北)の地を得なければ兵は減らせない。上策は朝廷自身が治を整えること、中策は魏博を制すること、下策は地勢を無視した力攻めである」というもの。
- 膳部員外郎。李徳裕に才を認められ、会昌中の回鶻情勢や劉稹討伐において具体的な戦略(河陽の防御、忠武・武寧軍の増派路など)を進言し、いずれもほぼ的中した。黄・池・睦の三州刺史、司勲員外郎、湖州刺史、中書舎人を歴任。
- 人物評:剛直で細事にこだわらず、大事を論じることを好んだ。従兄の悰が将相を歴任したのに対し牧は不遇で不平を抱いていた。享年50で没する前、死を予感する複数の夢を見て自ら墓誌を書き文章を焼いたという。詩に優れ「小杜」と呼ばれ杜甫と区別された。
杜顗――牧の弟
- 字は勝之。幼くして眼病を病んだ。進士に及第、賈餗に高く評価された。李徳裕の浙西府賓佐となり、徳裕に憚らず諫言した数少ない人物だった。李訓・鄭注の失敗を予言していた。文才は牧に並んだが、失明のうちに没した。