新唐書卷一百六十六 列傳第九十一 令狐楚

令狐楚

  • 字は殻士、令狐徳棻の裔。5歳で文章を作り、弱冠で進士に貢挙。桂管観察使王拱に才を愛され招聘を受けた。父が并州の官にあったため孝養を優先し宴楽に加わらなかった。李説・厳綬・鄭儋の下で掌書記から判官に昇り、徳宗にも文才を認められた。鄭儋が急死した軍乱の際、諸将に囲まれながら動じず遺奏を代筆し軍を鎮めた。
  • 憲宗時、職方員外郎・知制誥。箋奏制令に優れ、皇甫镈の推薦で翰林学士、中書舎人。蔡州討伐継続を巡り裴度と対立する宰相李逢吉に近く、度が節度使として起草した制文の食い違いで学士職を停められ中書舎人のみに。華州刺史に出る。
  • 镈の推薦で河陽懐節度使、烏重胤の後任として反乱寸前の軍を鎮撫。裴度が太原を出た際、镈の推薦で中書侍郎・同中書門下平章事。穆宗即位で門下侍郎。镈の失脚に連座を疑われ弾劾されるも蕭俛の庇護で難を逃れた。景陵造営使としての不正献金疑惑で衡州刺史に貶されるなど浮沈があった。
  • 李逢吉の後押しで河南尹、宣武節度使として汴軍の峻法統治を緩和し善政を敷いた。戸部尚書、東都留守、天平節度使、河東節度使を歴任。吏部尚書検校尚書右僕射、太常卿、左僕射・彭陽郡公。
  • 李訓の乱で文宗に召され鄭覃とともに対応を協議し、外部の司法手続きを主張した。王涯・賈餗の冤罪を憂い茶の専売使廃止を進言。開成元年(836年)、新たに誅殺された大臣の遺骸が未収のまま宴を開くことに異を唱え、辞位を願い山南西道節度使に出て没した。享年72、贈司空、諡は文。
  • 人物評:外見は厳格だが内は寛厚、士を礼遇した。占いや鬼神を語る者は退けた。死に際し薬を拒み、子弟に「位の高さで墓誌を選ぶな」「布車一乗で葬れ」と遺言、門人李商隠に甘露の変の犠牲者への赦免を求める最後の奏を託した。没する夜大星が寝室に落ちたと伝わる。

令狐緒――楚の子

  • 蔭仕で隋・壽・汝三州刺史、善政を残した。汝州の民が頌徳碑を求めたが、弟綯が執政にあることを理由に固辞した。

令狐綯――楚の子

  • 字は子直。進士から左補闕、右司郎中を経て湖州刺史。
  • 大中初、宣宗が憲宗の葬送で風雨の中髯の長身の男が梓宮に付き従っていたことを尋ね、それが令狐楚だったと知り、その子綯が湖州にあると聞いて「宰相の器」と評した。考功郎中知制誥、翰林学士に召された。帝と『金鏡』を論じる中で賢者登用の要諦を説き高く評価された。中書舎人・彭陽男を襲封。御史中丞、兵部侍郎、翰林承旨。同中書門下平章事となり10年輔政。懿宗即位で司空。河中・宣武・淮南の節度使を歴任、涼国公に封ぜられた。
  • 龐勛が桂州から浙西を経て北上した際、副将李湘の的確な進言(迎撃策)を用いず「彼が暴れなければ我関知せず」と消極策をとった結果、龐勛は徐州を奪い数万の軍勢となった。徐州南面招討使として李湘に泗州救援を命じるも、賊の偽降策に欺かれ湘の軍が全滅する大敗を喫した。
  • 敗戦により馬挙に交代、太子太保、鳳翔節度使、同平章事、趙国に改封。享年78で没し、贈太尉。子は滈・渙・沨。

令狐滈――綯の子

  • 進士を避け挙げなかったが、父綯の権勢を背景に鄭顥と姻戚関係を結び、賓客交際や利権漁りで側目された。父の失脚を機に人々が滈の不正を告発し、諫議大夫崔瑄が進士取得の不正を弾劾するも聞かれなかった。左拾遺劉蛻・起居郎張雲がさらに滈の不正(李琢の安南都護就任を巡る賄賂等)と父綯の朋党(大中期の夔王侍読人事の不当)を弾劾したが、劉蛻・張雲の方が左遷される結果となった。滈は不遇のまま没した。

令狐渙・沨――綯の子

  • 共に進士に及第。渙は中書舎人で終わった。

令狐定――楚の弟

  • 字は履常。進士に及第。太和末、駕部郎中として弘文館直学士。李訓の乱に巻き込まれ神策軍に捕らえられ危うく殺されかけたが免れた。桂管観察使で終わった。

史論

  • 賈耽・杜佑・令狐楚は皆篤実な儒者であり、大衣高冠にて廟堂に泰然と構え、古今を語り実務を処理する能力はあったが、大節をもって責めれば、玉のような外見の陰に濁った部分があったといえよう。杜悰・令狐綯が国政を担ったことについても、特に非難するには及ばない。杜牧が天下の兵事を論じて「上策は自ら治めるにしかず」と説いたのは、まことに卓見であった。