賈耽
- 賈耽、字は敦詩。滄州南皮の人。天宝中、明経に及第し臨清尉。上書により太平尉に転任。河東節度使王思禮の下で度支判官を務め、汾州刺史として7年治め異例の治績を上げた。鴻臚卿・左右威遠営使を経て山南西道節度使。
- 梁崇義が山南東道で反乱を起こすと谷城に進駐し均州を奪取。建中3年(782年)、山南東道節度使に転任。徳宗が梁州に避難した際、司馬樊澤を使者に立てて奏事させたが、澤が代わって節度使に任じられる急な詔が届くと、耽は動じず宴を続け、大将張獻甫の不平を諭して混乱なく譲位に応じた。
- 東都留守に転任、故事では留守は城を出ないところ、耽の弓術を優として近郊での狩猟が特別に許された。義成節度使として、淄青の李納が偽号を除きながら陰謀を蓄えるのを警戒しつつも寛大に接し、李納軍の宿営を城内に許すなど信頼を築き、李納の心服を得た。
- 貞元9年(793年)、尚書右僕射・同中書門下平章事、魏国公に封ぜられた。方鎮の帥の欠員は天子が直接任命すべきで軍中の意向に諮ると内紛を招くと説いたが、実行はされなかった。順宗即位で検校司空・左僕射。王叔文らの専権を憂い病を理由に辞職を願うも許されず、享年76で没した。贈太傅、諡は元靖。
- 学問を好み、老いてなお怠らず、特に地理に精通した。使節や周辺民族との交流を通じ天下の風俗・物産・山川を究めた。吐蕃が隴西を占拠していた頃の州県の状況を『別録』6篇・『河西戎之録』4篇にまとめ、地図とともに献上、幣帛や馬・珍器を賜った。さらに幅3丈・縦3丈3尺、1寸を100里とする『海内華夷図』を作成し、『古今郡国県道四夷述』も撰した(中国は『禹貢』、外夷は班固『漢書』に依拠し、古い郡国は墨字、当時の州県は朱字で区別)。『貞元十道録』も著した。
- 人物評:度量が大きく長者の風があり、人物評を好んで口にしなかった。13年間宰相を務め、安危に関わる大事に関与しなかったが、身を慎み行いを正すことに長じ、賓客への応対に倦むことなく喜怒を人に見せなかった。世は彼を淳徳の人と評した。