陸贄――出自と初期の官歴
- 陸贄、字は敬輿。蘇州嘉興の人。18歳で進士に及第し博学宏辞にも合格。鄭県尉を経て一旦帰郷したが、壽州刺史張鎰に才を認められ忘年の交わりを結んだ。鎰が贈った百万銭を辞退し茶一串だけ受け取った逸話が知られる。書判抜萃で渭南尉に補された。
- 徳宗の巡察使たちに、風俗を省みる「五術」、吏治を聴く「八計」、人材を登用する「三科」、財を量る「四賦」、民を保護する「六徳」、簡素化を図る「五要」の具体策を説き、監察御史に進んだ。
陸贄――河北出兵をめぐる諫言
- 皇太子時代から名を知られ、翰林学士に召された。馬燧の河北討伐が長引き、李希烈が襄城を侵した際、対策を問われた贄は「幽・燕・恒・魏は互いに牽制し合い緩やかな脅威だが、希烈は蔡・許・鄧・襄を併せ持ち急を要する脅威」として、太原・澤潞の兵で山東に専念させ、李芃を河陽から東都救援に、李懐光を襄城救援に充てるよう提案した。
- さらに「関中は王業の根本であり、居重馭軽の要である」との大局観から、朔方・太原の兵を山東へ動員し神策六軍まで関外に配置している現状を批判し、榷酒・税間架・貸商・点召など苛政の停止を求めたが、帝は容れなかった。後に涇原の変が起きてこの言の正しさが証明された。
陸贄――奉天籠城中の諫言
- 奉天籠城の間、贄は昼夜書詔を数百通起草し、他の学士が追いつけないほどの速筆と周到さを示した。
- 帝が自らを責める言葉に対し、贄は「陛下が過ちを認めるのは堯舜の心だが、寇を招いたのは群臣の罪」と述べつつ、実は盧杞らを指していた。帝が「天命かもしれない」と応じると、贄は上書して「天命とは民意によるものであり、人事を離れて天命はない」との論を展開、群臣に竭誠を求めない者こそ罪があると説いた。
- 帝が改元して新たな尊号を加えようとした際、贄は「乗輿が播越し大逆がまだ除かれていない今こそ、名を貶め謙徳を示すべき」と諫め、帝はこれに従った。
- 興元の赦令を起草する際、贄は「非常の危機は常道では治まらない、悔過と招延を徹底し天下の望みに応えるべき」と説き、瓊林・大盈の二庫(私的な貢物庫)を廃して功臣への賞に充てるよう進言、帝はこれを撤去した。
陸贄――李懐光の変への対応
- 李懐光が謀反の兆しを見せた際、贄は帝の使者として懐光と対話し、「懐光は寇を追わず軍を老いさせている、必ず謀反する」と見抜いて李晟の移屯を進言した。また李建徽・陽惠元も東渭橋へ合流させるよう建言したが、帝の躊躇の間に懐光は両軍を奪い、惠元は戦死し行在は震撼して梁州へ避難する事態となった。
- 道中で瓜果を献じた者に試官を授けようとした帝に対し、贄は「爵位は天下の公器であり、功なくして授ければ軽くなる」と強く諫めた。
陸贄――内相としての諫言
- 諫議大夫に進み学士を兼ねた。鳳翔節度使李楚琳の罪を問う議論が紛糾した際、「勤王の軍の道が限られる今、楚琳を刺激すれば咽喉が塞がれる」と冷静な判断を示し、帝の疑念を解いた。
- 内外の従官への「定難元従功臣」号の一律授与を諫め、京師平定後に内人の捜索を急ぐ帝には「大難平定直後にすべきは神主の迎え直しや忠義の顕彰であり、宮室の整備は後回しにすべき」と説いた。
陸贄――宰相としての施策
- 母の喪を終えて学士に復帰後、竇参の失脚を経て貞元8年(792年)、中書侍郎同中書門下平章事となった。宰相就任にあたり、台閣長官が属吏を自ら推薦できる制度を提案したが、私党登用の懸念から撤回された。この際「求才は広く、考課は精しくすべき」との原則を説いた。
- 吏部の選叙が滞る弊害を正すため、内外の官員を三分し毎年の欠員に応じて選考する制度を建議。賈耽・盧邁・趙憬ら宰相が互いに判断を避ける弊を正すため、輪番で決裁する制度も復活させた。
陸贄――辺防の六失論
- 河南・江淮の兵を毎年西北へ動員する「防秋」の弊害について長大な上奏を行った。要旨は次の通り。
- 中国の得意とする守勢戦術(要害の維持・持久戦)を用いず、戎狄の得意とする野戦で相対しているのは「務所難・勉所短」の誤り。
- 六つの失策として、①遠隔地の兵を無理に辺境防衛に充てる「措置乖方」、②賞罰の基準が曖昧な「課責虧度」、③財政負担が偏る「財匱於兵衆」、④節度が多く統率が分散する「力分於将多」、⑤辺境の兵と関東の戍卒の待遇格差による「怨生於不均」、⑥将の任用を朝廷が遠隔操作する「機失於遙制」を挙げた。
- 解決策として、防秋の兵を三分し、本道募集・本道衣糧での配備・応募者への資糧給付による定着化を提案。隴右・朔方・河東にそれぞれ元帥を置き節度府の兵を統合する構想を示した。
- 帝はこの言葉を評価しつつも採用しなかった。
陸贄――裴延齡との対立と晩年
- 度支の人事で李巽を推薦したが帝は裴延齡を用いた。贄は延齡の「僻戾躁妄」を繰り返し諫めたが聞き入れられず、延齡の讒言により太子賓客に左遷された。陽城らの弁護でかろうじて死罪を免れ、忠州別駕に貶された。順宗即位で召還の詔が下る前に、52歳で没した。兵部尚書・諡宣を贈られた。
- 若くして翰林に入り帝の信頼が厚く、「内相」と呼ばれた。奉天での赦令起草は武人・悍卒まで感動させ、李抱真も「河北にまでその言葉が届き士卒が奮い立った」と証言した。興元の戡難の功には贄の助けがあったとされる。山南行幸で一時行方不明になった際、帝は千金の賞をかけて捜索させたほどであった。輔政にあたっては「上は天子に負かず、下は学んだところに負かず」と述べ、直言を貫いた。晩年は謗りを避け著書もせず、地方の瘴癘の中で『今古集験方』五十篇のみを郷人に示した。
史論
- 徳宗が滅びなかったのは、まさに幸運というべきである。危難の時には贄の謀を用いながら、平定後にはその直言を仇のように扱い讒言のままに追放し、旧びた履物のように棄てた。裴延齡のような佞臣には磐石のごとく寵任を続けた――これは昏愚と佞臣が結びついた結果である。世に贄が翰林を罷免されたのは呉通玄兄弟との寵愛争いのため、竇参の死は贄が密告したためとする説があるが、事実ではない。君子と小人は共存できず、佞臣が君寵を得れば正士は危うくなる、それだけのことである。贄の論諫数十百篇を見れば、いずれも仁義に基づき時弊を論じており、後世の模範とすべきものである。その輝きは丹のごとく明らかだが、帝が用いた才はその十分の一に過ぎなかった。唐の命運が振るわなかったのも当然というべきか、惜しいことである。