新唐書卷一百五十八 列傳第八十三 韋臯

出自と鳳翔での挙兵

  • 韋臯、字は城武。京兆萬年の人。建陵挽郎から出発し、張鎰の下で営田判官、殿中侍御史として隴州行営留事を務めた。
  • 徳宗の奉天避難時、李楚琳が張鎰を殺して硃泚に帰順する中、隴州に残った牛雲光が臯を帥に立てようとしたが、臯はこれを見抜いて雲光とその配下を宴に招いて一挙に誅殺し、硃泚の使者も次々斬った。この功で隴州刺史・奉義軍節度使となり、兄韋平や弟韋弇と共に奉天で盟を結んだ。吐蕃とも連和し隴坻を安定させた。

剣南西川での対吐蕃・対南詔経略

  • 貞元初年、劍南西川節度使として、吐蕃の先導役だった雲南(南詔)諸蛮を懐柔する戦略を進めた。苴那時・烏星の王位継承問題を礼を以て解決し、東蛮の驃傍・苴夢沖らと結んで吐蕃との盟を絶たせた。臺登の戦いで吐蕃の青海の大酋乞臧遮遮らを破り、雲南諸蛮の帰順を促した。
  • 崔佐時を石門経由で南詔に派遣し、南詔との通交を再開。西山羌女・訶陵など8国の酋長の入朝を実現し、「南道」を開いた。同中書門下平章事に進んだ。
  • 貞元13年(797年)以降、九節度の帰順が相次いだが吐蕃の反撃で麟州が破られると、帝の命で大規模な反攻作戦を実施。8月、5万の軍を8方面から動員し、10月に維州を包囲、援軍の吐蕃内大相論莽熱を生禽して献上した。検校司徒兼中書令・南康郡王に進み、帝は紀功碑を建てて功を称えた。

順宗擁立への関与と晩年

  • 順宗即位後、検校太尉。王叔文らの専横に対し、劉辟を京師に送り「劍南を臯に委ねるか、恨みを買うか」と迫らせたが叔文の怒りを買った。臯は叔文の失脚を見越し、皇太子への監国を上表するなど太子擁立を働きかけ、太子の受禅と奸党一掃を後押しした。この歳、61歳で急逝、太師・諡忠武を贈られた。
  • 蜀を治めること21年、吐蕃討伐で破った兵48万、捕殺した節度・都督・城主・籠官1500、斬首5万余、獲得した牛羊25万・器械630万に及び、西南方面で最大の功績とされた。士卒には婚礼にも厚く資財を与えるなど恩情深く、僚属は顕職でも都に帰さず属州刺史に任じたため私的な蓄えを疑われた。劉辟が後に反乱を起こしたのはこの弊による。臯の兵器に「定秦」の字を刻んだことを咎める声もあったが、それが匠の名であったとの証言で疑いは晴れた。詩人陸暢は李白『蜀道難』に対抗して『蜀道易』を作り臯を称えた。

臯兄 聿

  • 韋聿は父の蔭で南陵尉から秘書郎、太子司議郎を経て淮南杜佑府に仕えた。国子司業となったが、弟の子行式の縁座問題で咎められかけたが赦された。太子右庶子で終わった。

臯弟 平

  • 韋平は臯と共に硃泚の使者を斬り、奉天で功を上奏して万年尉に抜擢された。

平子 正貫

  • 韋正貫、字は公理。単父尉から賢良方正で登用され、嶺南節度使に至った。清廉を貫き、淫祠を廃して民に妄りな祈祷をさせなかった。海水の氾濫時、自ら城壁で酒を捧げて誓いを立て、民の信を得た逸話がある。遺言で厚葬を拒み、68歳で没した。

附 劉辟

  • 劉辟、字は太初。韋臯府で支度副使を務め、臯の死後、後務を主導して節度権を得ようとした。憲宗の即位直後、盧文若を東川節度使に据えようと梓州に出兵、五福星の吉相を語る術者の言に乗じて僭上の振る舞いをした。杜黄裳の進言で高崇文らが討伐に向かい、成都は陥落。辟は逃走の末に捕らえられ、京師で斬首された。子超郎ら9人も処刑された。