新唐書卷一百五十五 列傳第八十 渾瑊

出自と若年

  • 渾瑊は鉄勒九姓の渾部の出。父渾釈之は朔方軍で功を重ね甯朔郡王に封じられたが、広徳中に吐蕃との戦いで戦死した。瑊は11歳で騎射に優れ、朔方節度使張斉丘に「乳母と来たのか」とからかわれながらも初陣で功を立てた。安慶緒討伐、僕固懐恩の乱鎮圧などで功を重ね、懐恩反乱時には郭子儀の下に帰属した。

代宗・徳宗朝の軍功

  • 大暦7年(772年)、黄菩原で吐蕃と戦い、旧将史抗らの軽率な行動で大敗したが、その後朝那・秦原で虜を撃退し失地を回復した。回紇の太原侵攻を撃退し、単于副都護・振武軍使を兼ねた。硃泚の乱では奉天籠城戦で防戦の中心となり、雲梁(攻城機)や隧道戦術を用いた硃泚軍を撃退した。帝は詔書を渡して功に応じ署名して用いるよう命じ、瑊は落涙して奉じた。

長安奪還と平涼の盟

  • 李晟らと共に長安を奪還し、検校尚書左僕射・同中書門下平章事、咸寧郡王に進んだ。李懐光討伐でも馬燧と共同し、検校司空となった。吐蕃の尚結賛は瑊・晟・燧を恐れ離間策を用い、平涼川での会盟使として派遣された瑊は虜に拉致される事件(平涼の盟の変)に遭ったが自身は脱出した。奉天に戻り罪を待ったが赦された。貞元15年(799年)64歳で薨去、太師・諡忠武を贈られた。

人物

  • 瑊は読書を好み『春秋』『漢書』に通じ、司馬遷の自敍に倣って『行紀』一篇を著した。功高くして志はますます謙り、賜与を受けるたびに拝跪して受けた。世は前漢の金日磾になぞらえた。徳宗はその奏上を疑うことなく信頼し続け、蒲州を16年治める間、離間策も入り込めなかった。本名は日進といったが後に改めた。5子のうち鎬・鐬が顕官に至った。

子 鎬

  • 渾鎬は謙虚で士大夫と交わることを好み、鄧・唐二州刺史として治績を挙げた。元和中、義武軍節度副使を経て節度使となったが、計略に乏しく鎮・定二州境で軽率な布陣をして賊の急襲を受け大敗、韶州刺史に貶された。後に供軍の金幣を横領した罪でさらに循州に貶され、そこで没した。

子 鐬

  • 渾鐬は諸衛参軍から豊州刺史に至ったが贓罪700万銭で袁州司馬に貶された。訓・注の乱の際には賈餗を匿った疑いで捕らえられたが釈明して免れた。文宗の温情で少府監、後に夀州刺史となり、諸衛大将軍で終わった。

史論

  • 唐代の史官は「馬燧は沈着雄毅で忠実な力を持ち、常に計略を先立てて戦った。士卒の心を得て決死の覚悟で戦い続け、名を一時に馳せた」と評した。しかし田悦を捕らえる機を得ながら取らず、信じ難い虜を信じて盟を結んだことが、河北三賊の不臣と平涼での大臣の辱めを招いた責は燧にある。それでも燧は賢者であり、功を以て罪を掩わないが、罪を以て功を廃することもできない。渾瑊は結賛との盟に自ら臨んで虜の詐りを見抜けなかった――ただ詔のままに謹んだだけで、猛志はあっても英才には欠けたのだろうか。李晟が「虜とは盟を結ぶべきでない」と見抜いていたのに比べれば、燧・瑊は遠く及ばない。功名の大小とは、まさにこのようなものであろう。