新唐書卷一百五十六 列傳第八十一 楊朝晟

楊朝晟

  • 楊朝晟、字は叔明。夏州朔方の人。先鋒の功で甘泉府果毅を授かった。建中初年、李懐光に従い涇州で劉文喜を討ち、驃騎大将軍に進む。李納の徐州侵攻でも常に先陣を務めた。懐光が奉天へ急ぐ際、朝晟の兵千人が咸陽を陥落させ実封150戸を賜った。
  • 李懐光反乱時、父楊懐賓が韓遊瑰の将として夜襲で反徒を斬った功を上奏したが、朝晟自身は懐光に捕らえられた。「父が国に功を立てたのに、子である私が兵を率いるべきでない」と懐光に訴えたが幽閉された。懐光平定後、帝の温情で朝晟は韓遊瑰の都虞候となり、父子とも高位に列せられ軍中の栄誉とされた。
  • 吐蕃侵入時、韓遊瑰の統率が緩んで軍が乱れると朝晟は一時郊外へ逃れたが、張献甫が代わって統率すると偽って軍を慰撫し、首謀者200余人を斬って乱を収め、御史大夫を加えられた。
  • 貞元9年(793年)、鹽州築城の際、木波堡に駐屯。方渠・木波の築城を提案し、帝の「以前は5原築城に7万の兵を要したのになぜ今は少なくてよいのか」との問いに、「今度は虜が油断している間に築くので少数精鋭で十分」と的確に答え、策は採用された。方渠築城の際、水源を発見した奇瑞を報告し、応聖泉の名を賜った。馬嶺も再築城し、開拓地は300里に及んだ。17年(801年)、屯所で没した。