出自と安史の乱
- 馬燧、字は洵美。右扶風の出自で汝州郟城に移住した。父馬季竜は孫呉の兵法科に挙げられ嵐州刺史に至った。燧は堂々たる体躯(身長六尺二寸)で、兄たちとの学問を中断し「天下有事の時、大丈夫たるもの功で四海を済うべきで、老儒であってはならない」と兵書戦策を学んだ。
- 安禄山の乱で范陽を守る賈循に「向潤客・牛廷玠を斬り根本を絶てば、祿山は西に入れず自ら滅びる」と説いたが、決断できないうちに顔杲卿の招きに応じようとした循は祿山の使者に絞殺された。燧は西山から間道で平原へ逃れたが、平原も陥落し魏へ走った。
澤潞から河陽・汴州平定
- 寳応年間、澤潞節度使李抱玉の下で趙城尉となった。回紇軍の暴行を鎮めるため酋長と約を結び死囚を用いて秩序を保つなど手腕を発揮し、抱玉に「僕固懐恩の野心に備えるべき」と進言、河北諸将の去就を的確に読んだ。鄭州刺史・懐州刺史として農政・救民に努め、隴州刺史時代には吐蕃の侵入路を石と樹木で塞いで防いだ。
- 大暦中、河陽の乱を鎮めるため三城使となり、汴州の李霊耀の乱では淮西李忠臣と共同で討伐にあたった。忠臣が動揺すると燧が引き止めて軍を立て直し、田悦率いる救援軍を単独で撃破し汴州を平定した。功を忠臣に譲り、河陽に戻った。河東節度使として太原の軍を再建し、戦車・鎧の規格を整えるなど、北方の威を高めた。建中2年(781年)、検校兵部尚書・豳国公に封じられた。
田悦討伐
- 田悦の反乱を予見し、邢州・臨洺への包囲を昭義李抱真・神策李晟と共に救援。楊朝光の柵を火計で攻略し斬殺、臨洺で田悦の大軍を百余度の激戦の末に破り、万余の首級を得た。私財を賞に投じ、徳宗は度支の銭五千万でこれを償わせた。
- 李納・李惟岳の援軍と対峙した洹水の戦いでは、糧の不足を逆手に取り、夜半に軍を移動させ田悦らを橋ごと焼き討ちにして大勝、二万の首級を得た。抱真・李芃の問いに「糧が少ないからこそ速戦が有利、敵の背後を突く策を取った」と答えた。田悦は魏州に籠城したが、次々と将が投降し、燧は同中書門下平章事・北平郡王に進んだ。
抱真との不和と李懐光反乱の平定
- 硃滔・王武俊が魏州を包囲すると李懐光の援軍が加わるも大敗し、燧は魏県に退いた。抱真との私怨から軍功の分配を巡って対立が深まり、大功を逃す原因になったと評された。
- 太原に戻ると汾水を引いて城壁を固める防備を整えた。李懐光が河中で反乱を起こすと河東保寧・奉誠軍行営副元帥として渾瑊・駱元光と討伐にあたり、晋・慈・隰を降した。徐廷光が守る長春宮城では、単身で城下に赴き「私を欺くと思うなら射よ」と胸をはだけて説き伏せ、廷光を降伏させた。渾瑊も「馬公の敵の制し方は自分の及ぶところではない」と嘆じた。河中は一月足らずで平定され、光禄大夫・侍中を授かった。
吐蕃との和議とその後
- 貞元2年(786年)、吐蕃の尚結賛が鹽・夏を破ると招討使として出撃したが、結賛の和議要請に応じて盟を許すよう帝に進言し、これが渾瑊の平涼の盟での虜による拉致という結果を招いた。吐蕃は燧の兄の子・馬弇を釈放して和議への謝意を示したが、帝は悔い怒り、燧の兵権を奪い司徒・侍中として朝請のみの立場とした。李晟と共に淩煙閣に肖像を描かれた。晩年は足を病み、貞元9年(793年)70歳で薨去、太傅・諡荘武を贈られた。
子 暢
- 馬暢は鴻臚少卿。建中年間、燧が山東で討伐中、京師で商人課税に反対する動きに関わり、燧の怒りを買ったが、帝の温情で罪を免れた。燧の死後は莫大な資財を相続し豪奢に暮らしたが、権勢者に侵食され困窮した。少府監で終わり、諡は縦(放縦の意)とされ、当時の人々は暢を戒めとした。
兄 炫
- 馬炫、字は弱翁。蘇門山に隠れ儒学に通じたが出仕せず、後に李光弼・田神功に用いられ潤州刺史などを務めた。燧が司徒になると刑部侍郎を授けられたが病を理由に辞し、兵部尚書で致仕した。