新唐書卷一百五十二 列傳第七十七 宋申錫

出自不詳ながら進士に及第し翰林学士となった文宗朝の宰相。宦官王守澄らの専横排除の密謀を託されたが計画が漏れ、太和5年(831年)、謀反の誣告を受けて開州司馬に左遷された。清廉で賄賂を一切受けなかったことが後に証明され、朝野はその冤罪を悼んだ。太和7年(833年)、失意のうちに死去。後に名誉回復され、会昌2年(842年)諡「貞」を贈られた。

年表(4件)

生涯

  • 宋申錫は字を慶臣といい、出自不詳。若くして孤児となり、進士に及第、節度府を経て起居舎人、礼部員外郎で翰林学士。敬宗代、侍講学士。長慶・宝暦の風潮(朋党の横行)の中、孤直で党派を持たない人物として期待された。
  • 文宗即位後、中書舎人、翰林学士。帝は宦官王守澄らの専横を憂い、その根絶を図る相談相手として宋申錫を選び、密かに謀を託し宰相に取り立てた。京兆尹に王璠を任じ密かに帝意を伝えたが、王璠の漏言により宦官鄭注に謀が露見。
  • 太和5年(831年)、軍候豆盧著が宋申錫と漳王の謀反を誣告、王守澄が直ちに武力鎮圧を図ったが、宦官馬存亮が「謀反犯は申錫のみ、南司と会議すべき」と諫めて事態を収拾。宰相らが召集される中、宋申錫は自らの排除を知らされ延英門で笏で額を打って嘆いた。王守澄は側近を捕らえ拷問で罪を捏造した。
  • 帝は太子右庶子に左遷し、多数の官が集められ謀反の審理が行われた。翌日、抵死の議論の中、仆射竇易直の「臣下に将たる意図あれば必ず誅すべき」との厳しい発言があったが、崔玄亮・李固言ら多数の諫官が伏して抗議し(涙ながらの懇願)、帝は激怒しつつも徐々に態度を軟化させ、京兆尹崔琯・大理卿王正雅の追及で豆盧著の誣告が明らかになり、宋申錫は開州司馬に左遷(連座者多数が流死)。豆盧著はむしろ殿中侍御史を兼ねるという不条理な結末となった。
  • 宋申錫は帰宅後、素服で命を待ち、妻に「なぜ天子に背いたのか」と問われ「孤生から宰相に至り厚恩を受けながら奸を除けず、逆に陥れられた、どうして反逆者と言えようか」と答えた。清節を旨とし賄賂を一切受けなかったが、獄の審理で返却済みの贈答書簡がすべて発見され、朝野はその冤罪を悼んだ。宰相としての功績には乏しかったが、太和7年(833年)憤懣のうちに死去、詔により帰葬が許された。
  • 開成元年(836年)、李石の延英対で冤罪の是正が進言され、帝は「当時も過ちに気づいていたが、忠を装う者に社稷のためと迫られたゆえだった」と述べ、右丞・同中書門下平章事を追復、兵部尚書を追贈、子の宋慎微を城固尉に登用した。会昌2年(842年)、諡「貞」が贈られた。

史論

  • 賛にいう。張鎰・武元衡は王室に忠を尽くして命を落とし、李絳は大臣としての巨徳を備えながらも賊奸に乗じられ、その天寿を全うできなかった。善に福し淫に禍するという理も、時にはねじ曲がることがあるということであろう。とはいえ、賢者が忠義を貫く上でこの不幸に遭ったからといって、その心に不満を抱かせてはならない。身は損なわれても、その名は泰山・崧山と並び立つ。姜公輔は帝との隙が開いても、なお諫言を続けた。宋申錫は小さな謀を大きな任に用い、道半ばで倒れた、惜しむべきことである。