新唐書卷一百五十二 列傳第七十七 李絳

贊皇の人、字は深之。翰林学士として憲宗に「絳の言は骨鯁、真の宰相なり」と評された直言の臣。宦官の専横や河北藩鎮政策で的確な進言を重ね、宰相を歴任した。晩年、南蛮討伐で赴いた山南西道節度使の任地で監軍の煽動による兵乱に遭い、太和4年(830年)、67歳で殺害された。大中初、淩煙閣に図像を留められた元和の将相の一人。

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生涯

  • 李絳は字を深之といい、贊皇の出。進士・宏辞に及第、渭南尉から監察御史。元和2年(807年)、翰林学士、知制誥。李锜誅殺後の財産処分を巡り「六州の民は李锜の苛斂に苦しんだ、本道に賜り貧民の租税に充てるべき」と裴垍と共に諫め実現させた。宦官による赦令伝達の弊害を指摘し、度支塩鉄の急逓に改めさせた。
  • 憲宗の太宗・玄宗への憧憬に対し「正身励己、道徳を尊び邪佞を遠ざけ忠直を進めよ」と説き、帝の賛同を得て『連屏』(君臣成敗五十種の事例集)を編纂させた。
  • 宦官吐突承璀の安国仏祠碑建立要求に反対し(「陛下の徳は文字で尽くせるものではない」との論理)撤回させた。裴均の違詔献上物を度支に戻し信を示すよう進言、帝はこれに従い裴均の罪も赦した。盧從史の昭義復帰を巡る画策も阻止した。
  • 諫官への譴責案に反対し「上達する言葉はわずか十に二」と諫言の困難さを説いた。宦官承璀の王承宗討伐(無功に終わる)への懲罰を求め、宦官の統率不適格を主張した。
  • 承璀の後任人事、田弘正の全軍留守要請、王承元の帰順支援など、河北情勢での的確な進言を重ねた。江淮の旱害への対策、後宮の削減、嶺南の人身売買規制などにも及んだ。
  • 「今日の陛下は漢文帝の憂いに及ばない」との率直な諫言で「絳の言は骨鯁、真の宰相なり」と評された。田弘正の子田興(田弘正の後継)の擁立、河朔統治策で吉甫との路線対立があったが、最終的に李絳の見立てが正しいと証明された(六州帰順の褒賞百五十万緡の是非を巡る議論など)。
  • 朋党論への警戒を説く長大な議論、王播の塩鉄使私物化への批判、辺境防備の一元化提言、盛夏の延英対でも「宦官・女子とばかり接する朕にとって卿との対話は楽しみ」と帝に慰留された逸話などがある。
  • 教坊による後宮女性の徴集問題を独り上奏し撤回させた。足の病により禮部尚書に左遷、その後も北方情勢(回鶻・吐蕃の脅威)への警戒を上疏した(辺備の五つの憂いを具体的に列挙)。
  • 華州刺史として承璀一族の不正を摘発、狩猟習慣の抑制も進言し実現。兵部尚書、母の喪、河中観察使を歴任、皇甫镈に忌まれ冷遇されたが不当と評された。御史大夫を経て穆宗の遊猟を諫めたが用いられず、東都留守、東川節度使を歴任、宝暦初(825年)尚書左僕射。剛直さゆえに讒言に遭い、御史中丞王璠との道での礼儀違反を巡り太子少師・分司東都に左遷された。
  • 文宗即位後、太常卿、山南西道節度使、趙郡公。太和4年(830年)、南蛮の蜀道侵犯に応じ募兵を率いたが、監軍楊叔元の煽動で軍が反乱、李絳は宴の最中で無防備なまま城壁に登って抵抗するも部将王景延が戦死し、李絳自身も殺害された、67歳。幕僚趙存約・薛齊も殉死。諫官崔戎らが冤を訴え、司徒追贈、諡は貞。王景延にも贈官があった。大中初、元和の将相の中で図像を淩煙閣に留められた(史官の選定作業では独り保留された)。李絳の議論は一万余言に及び、甥の夏侯孜が蔣偕に授け七篇にまとめられた。

李璋(李絳の子)――生涯

  • 子の李璋は字を重礼といい、大中初、進士及第、盧鈞の太原幕府を経て監察御史。太廟祫享の宰相摂事の復活を建言。起居郎として、郊祀の際の楽車観覧の慣例を廃止させた。咸通中、尚書右丞・湖南宣歙観察使に至った。