新唐書卷一百五十三 列傳第七十八 段秀實
姑臧の人、汧陽の出身。安西・北庭で武功を挙げ、涇州・邠州で軍紀の乱れを厳しく正した剛直の将。硃泚の乱では表向き従うふりをして反乱鎮圧を図り、硃泚に唾を吐いて罵り、笏で殴打した末に殺害された。柳宗元は「物腰柔らかだが不当なことには必ず志を貫いた」と評した。興元元年(784年)、太尉を追贈され諡は忠烈。
出自と若年
- 段秀実、字は成公。もと姑臧の人だが、曽祖父の段師濬が隴州刺史として赴任した地に住み着き、汧陽の人となった。6歳の時に母が病むと7日間水も飲まず看病し、「孝童」と呼ばれた。成長すると沈着で決断力があり、世を救う志を抱いた。明経に挙げられたが、友人にからかわれると「文章の細部を探るだけでは功を立てられない」と言って科挙の道を捨てた。
西域従軍から粛宗擁立まで
- 天宝4載(745年)、安西節度使馬霊詧に従い護密を討って功を立て、安西府別将となった。高仙芝に仕えて大食(アッバース朝)討伐に従軍し、怛邏斯城の戦いで唐軍が敗走した際、副将李嗣業を「敵を恐れて逃げるのは勇でなく、自分だけ助かるのは仁でない」と叱責して踏みとどまらせ、散った兵を収めて軍を立て直した。以後、封常清に従い大勃律を討ち、賀薩労城で虜の偽りの敗走を見抜いて伏兵を摘発する功を立てた。
- 粛宗が霊武にあった際、節度使梁宰が日和見して出兵を渋ると、秀実は李嗣業を叱咤して東進させ、自ら副将となった。安慶緒が鄴に逃れると懐州の留後を兼ね、財政窮乏の中で軍需を督励した。諸将が愁思岡で戦い李嗣業が流れ矢に当たって戦死すると、荔非元礼が代わって軍を統べたが、秀実は私財を投げうって嗣業を丁重に葬り、元礼に高く評価された。元礼が部下に殺害された後も、秀実は信望により将士に推されて危機を収め、白孝徳を新たな節度使に推挙した。
涇州の軍紀粛正
- 吐蕃が長安を襲い代宗が陝州へ避難した際、秀実は白孝徳を促して長安救援に向かわせた。邠寧に移った後、軍糧欠乏と軍紀の乱れを立て直し、涇州刺史・張掖郡王に封じられた。
- 郭子儀の子・郭晞の軍が邠州で横暴を極めた際、秀実は都虞候となって取り締まりを申し出た。郭晞の兵が市で乱暴を働くと首謀者を斬って晒し、激高した軍が武装した中、秀実は単身で郭晞の陣に乗り込み、「一老卒を殺すのになぜ武装するのか」と諭し、郭氏の功業が乱によって失われることを説いて軍を鎮めた。この一件により邠州は安定した。
- 涇州の営田官であった頃、大将焦令諶が旱魃で収穫のない農民に無理な取り立てを行い、鞭打った件では、秀実は自らの馬を売って代償を支払い、義俠の将尹少栄に焦令諶を痛烈に批判させた。焦令諶は恥じて自ら死んだ。
- 涇州に軍が移された後、別将王童之らの反乱計画を察知すると、太鼓の合図を遅らせて機先を制し、火計による反乱も鎮めて首謀者8人を斬った。馬璘の下で行軍司馬・都知兵馬使として鹽倉の戦いなどで功を立て、璘の死後は軍の混乱を収めて涇原鄭潁節度使となり、吐蕃の侵入を防いだ。徳宗の代には検校礼部尚書に進んだが、原州築城をめぐり宰相楊炎と対立し、司農卿に転じられた。
硃泚の乱と最期
- 硃泚が反乱を起こすと、兵権を失い不満を抱いているとみて秀実を迎えようとした。秀実は表向き従うふりをしつつ、劉海賓・姚令言・何明礼ら旧知の将と結んで硃泚を討とうと図った。源休が硃泚に偽って天子を迎えると称させ、韓旻に精鋭3千を率いて奉天を急襲させようとした際、秀実は姚令言の印を奪おうとして果たせず、司農印を逆さに用いて追撃命令を偽造し、韓旻の軍を引き返させた。
- 翌日、硃泚に呼ばれた席で源休の腕をつかんで象牙の笏を奪い、硃泚の顔に唾を吐いて「狂賊、お前に従うものか」と罵り、笏で殴りつけた。硃泚は額に傷を負ったが、劉海賓らの呼応が間に合わず、秀実は「私は反乱に与しない、なぜ私を殺さないのか」と叫んで殺害された。享年65。海賓・明礼・岐霊嶽もみな殺された。徳宗は秀実を十分に用いなかったことを悔い、涙を流した。
- 秀実は生前、家族に「硃泚から贈り物があっても受け取るな」と戒めていたが、家人が拒みきれず受け取った大綾三百匹を、自ら梁の上に置いて封を解かず、汚さぬようにした。
- 興元元年(784年)、太尉を贈られ、諡は忠烈。子孫にも官職と封戸が与えられ、廟が建てられた。子の伯倫が福建観察使を経て太僕卿となり、宰相李石が文宗に賻を厚くするよう求めた際、鄭覃は「古来、身を殺して社稷に利した者に秀実に及ぶ者はない」と述べ、帝は朝を廃してこれを許した。
- 秀実には涇州で禁軍が寡弱であることを憂え、「爪牙を失えば猛虎も畜生に劣る」と諫めた逸話もあるが、帝は用いなかった。後に涇州の兵が乱を起こした際、神策六軍は一人も駆けつけず、世人はその見識を評価した。
孫 嶷
- 段嶷は鄭滑節度使から右金吾衛大将軍に入り、西平郡公に封じられた。甘露の変で誅されるはずだったが、裴度が忠臣の後裔であるとして助命を奏し、循州司馬に貶された。
孫 文楚
- 段文楚は咸通末に雲州防禦使となった。李国昌が振武を鎮していた頃、その子李克用が雲中を得ようと兵を挙げ、文楚は鬥雞台下で殺された。これが沙陀の乱の発端となった。
孫 珂
- 段珂は僖宗の時代、潁州にいた。黄巣が潁州を包囲した際、刺史が城を開城しようとするなか、珂は若者を募って抗戦し、賊は潰走した。州司馬を拝命した。
附 劉海賓
- 劉海賓は彭城の人で、義俠で知られた。涇原の兵馬将として段秀実と親しかった。功を重ね御史中丞を兼ねた。劉文喜が涇州で反乱を起こした際、海賓と子の光国は偽って上奏に応じるふりをし、光国が文喜を斬って献上した。左驍衛大将軍・五原郡王に封じられ、海賓は楽平郡王・太子太保を贈られ、食封百戸を得た。