新唐書卷一百五十二 列傳第七十七 武元衡
曾祖は則天皇后の族弟という家柄。進士に及第し徳宗・憲宗に重用された剛直な宰相。浙西李锜の反乱を見抜き、劍南西川節度使として疲弊した蜀を立て直した。淮西討伐の機政を委ねられたが、元和10年(815年)、王承宗の恨みを買い暗殺された。京師を震撼させたこの事件は、公卿の外出に護衛が付くきっかけとなった。
生涯
- 武元衡は字を伯蒼といい、曾祖武載德は則天皇后の族弟、祖父武平一は名を知られた。進士に及第、華原令として畿輔の驕横な軍将を憚らず病を理由に辞した。徳宗にその才を評価され比部員外郎から右司郎中、御史中丞に抜擢された。帝が「これぞ真の宰相の器」と評した逸話がある。
- 順宗代、王叔文の勧誘を拒み、山陵儀仗使の判官人事でも劉禹錫の要求を退けて疎まれた。憲宗即位に伴い皇太子冊立の儀を補佐し太子に認識された縁で御史中丞、戸部侍郎に復帰。
- 元和2年(807年)、門下侍郎・同中書門下平章事、判戸部事。浙西李锜の入朝延期の企みを見抜き「詔を許しながら来ないのは可否が锜にある」と即座の召還を進言、結果として锜の反乱を招いたが正しさが証明された。
- 蜀平定後の後任として検校吏部尚書・門下侍郎・同平章事、劍南西川節度使、臨淮郡公。前任高崇文の浪費で疲弊した蜀を、倹約と寛政で3年で立て直した。
- 元和8年(813年)帰朝、輔政。李吉甫・李絳の対立の中、独り公正を保ち「長者」と称された。李吉甫死後、淮西討伐の機政を委ねられた。王承宗の不遜な使者を叱責したことが恨みを買い、承宗の讒言が続く中、元和10年(815年)、入朝の未明、賊に襲われ殺害された(「灯を消せ」との賊の合図の後、肩・股を射られ供の者は戦えず逃げ散り、首を持ち去られた)。この暗殺は京師を震撼させ、憲宗は朝を廃して哀悼した。司徒追贈、諡は忠愍。
- 犯人捜索は宦官・部隊による厳戒態勢となり、兵部侍郎許孟容の「宰相が路傍で殺されて捕まらないのは朝廷の恥」との進言で懸賞(千万銭、五品官)が布告され、左神策将軍王士則・王士平が張晏ら18人を捕らえ処刑した。ひと月後、東都防禦使呂元膺が淄青の間諜訾嘉珍・門察を捕らえ、実際の首謀者と判明したが、朝廷は密かにこれを処刑して事を収めた。
- この事件を機に京師の警備は厳重化し、公卿の外出にも護衛が付くようになった。
武儒衡(武元衡の従弟)――生涯
- 従弟の武儒衡は字を廷碩といい、容姿秀麗で言葉少なく人と交わって終始一貫していた。宰相鄭餘慶の質素な人柄に唯一整った身なりで通し重んじられた。武元衡の死後、帝の厚遇を得て戸部郎中・知諫議大夫事、知制誥。宰相皇甫镈の苛斂を弾劾した(镈が「怨みを晴らそうとしているのか」と帝に訴えたが応じなかった)。
- 剛直な議論で将来を嘱望されたが、宰相令狐楚に忌まれ、狄兼謨の抜擢を巡る制書で武后期の故事を引かれ皮肉られたことに涙して先祖の潔白を訴えた。中書舎人時、元稹の宦官を通じた出世を嫌う逸話(食卓の蠅を扇で払いつつ「どこから来てここに集まるのか」と当てこすった)が伝わる。疾悪が過ぎ大任には至らず、兵部侍郎で56歳で死去、工部尚書追贈。