生涯
- 姜公輔は愛州日南の人。進士に及第、校書郎から制策異等で右拾遺・翰林学士。任期満了時、母の扶養を理由に京兆戸曹参軍事の兼任を求めた。才に優れ徳宗の信任を得た。
- 朱滔が田悦を助けようとした密書が発覚した際、朱泚の危険性を早期に処断すべきと諫めたが用いられなかった。涇原兵の乱で帝が苑門を出た際「朱泚は涇原で人心を得ている、逃さず捕らえるべき」と諫めたが間に合わなかった。鳳翔への駐留計画にも危険性を指摘し(張鎰は文吏に過ぎず統率する軍が朱泚の旧部下である点を懸念)、結果として鳳翔で乱が起きたことでその先見の明が証明された。盧杞が朱泚を「忠実」と保証したことにも異論を唱え、諸軍の距離を置く配置に反対して禁旅の強化を進言した。これらの功で諫議大夫・同中書門下平章事に抜擢された。
- 帝の梁州出奔中、唐安公主の急逝に際し「今は乱の最中、葬儀は簡素にすべき」と諫めたことが帝の怒りを買い(帝は「宰相の関与すべきことでない」と激しく反発)、太子左庶子に左遷、母の喪で一時離職。
- 陸贄が宰相となった後も昇進の機会に恵まれず、竇參の言葉を巡る誤解(陸贄の私的な発言を漏らした形になった)で泉州別駕に左遷。順宗代、吉州刺史に任じられるも赴任前に死去。憲宗代、礼部尚書を追贈された。