生涯
- 張鎰は字を季権、また公度といい、国子祭酒張後胤の五世孫。父張齊丘は朔方節度使・東都留守。蔭により左衛兵曹参軍、郭子儀の元帥府判官を経て殿中侍御史。乾元初、華原令盧樅と宦官齊令詵の対立で不当な死罪判決に抗い、母の理解を得てあえて正しい判決を主張し自らは撫州司戸参軍に左遷された義の逸話がある。晉陵令、江西観察使張鎬の判官、屯田・右司員外郎を歴任、楊綰・崔祐甫と親交、母の喪に孝を尽くした。
- 大暦初、濠州刺史として清簡な政治と経術教育を推進、明経及第者を多数輩出した。李霊耀の反乱時、鄉兵を組織し厳守した功で侍御史。壽州刺史、江西・河中観察使、汴滑節度使を歴任。
- 建中2年(781年)、中書侍郎・同中書門下平章事。両河用兵の財政負担軽減のため皇太子の食費や百官俸給の削減を建言。処士田佐時の礼遇不足を指摘し厚遇を提案したが結局招致には至らなかった。
- 郭子儀の婿趙縦が奴の告発を受けた事件で、太宗以来の「奴が主を告発できない」の原則(貞観の詔と建中元年の再確認)を根拠に法の乱れを正す上疏を行い、奴を死罪、趙縦を軽い処分に留めさせた。
- 盧杞に忌まれ、鳳翔への赴任(朱泚配下の兵の慰撫)を巡る策謀にはめられ、中書侍郎から鳳翔・隴右節度使に転出させられた。吐蕃との清水の会盟では、動物の血の誓いの礼を恥じ密かに羊豚犬に代えさせた。
- 徳宗の奉天出奔時、私財を挙げて行在に献じようとしたが、朱泚に通じた将李楚琳の反乱を軍司馬齊映らが警戒しながらも張鎰自身は油断し備えなかった。李楚琳の夜襲を受け、城を降りて逃れようとしたが捕らえられ殺害された。属官の王沼・張元度・柳遇・李漵も共に死んだ。太子太傅を追贈された。