生涯
- 竇易直は字を宗玄といい、京兆始平の人。明経に及第、校書郎。10年間辟召を辞退し判入等で藍田尉。吏部郎中を経て元和6年(811年)御史中丞。陝虢観察使から京兆尹。万年尉韓晤の贓罪審理で当初三十万を摘発、憲宗が徹底調査を命じ最終的に三百万に及んだが、易直は金州刺史に左遷された。宣歙・浙西観察使として実績を回復。
- 長慶2年(822年)、李㽦の汴州反乱時、庫財放出を巡る議論で慎重論を取ったが、部将王国清の反乱謀議が発覚、獄が民衆に襲われる中「乱を誅する者には賞千万」と布告して鎮圧、三百余人を処刑した。戸部侍郎・判度支、4年(824年)同中書門下平章事、門下侍郎、晋陽郡公。度支使の兼任を辞退。
- 文宗即位後、検校尚書右僕射・同平章事、山南東道節度使。尚書左僕射・太常卿事、司空検校、鳳翔節度使を歴任、病により帰京し死去、司徒追贈、諡は恭恵。
- 公正廉潔を自負したが、仆射の礼式を巡る先例改訂(元和中の鄭餘慶の議を自ら覆した)で世の嘲笑を買った。子の竇紃は渭南尉・集賢校理、義父王涯の禍に連座しかけたが宦官の配慮で死を免れ循州司戸参軍に左遷された。
史論
- 賛にいう。關播は李元平を汝州の守りに推挙し、賊は彼を捕らえて臣従させた。宰相が人を見る目を持たなければ、まことに国を敗るに至る。徳宗はこの失態を理由に宰相を咎めなかったが、危うく天下を失うところであった。董晉は懦弱で安逸を求め、袁滋は恩信をもって賊を懐柔しようとした、いずれも迂闊で暗い人物であり、どうして功名を語れようか。