生涯
- 趙宗儒は字を秉文といい、鄧州穰の人。八代祖趙彤は後魏の征南将軍。父趙驊は字を雲卿といい、若くして学を好み清廉であった。開元中、進士に及第、太子正字から雷澤・河東丞。采訪使韋陟に重用され、陳留采訪使郭納の支使を務めた。安禄山の陳留陥落時、賊中に捕らわれたが、江西観察使韋儇の族妹(賊官の妻の罪で婢とされていた者)を金で贖い援助した誼で知られる。乱後は晋江尉に左遷されたが、召還されて左補闕、比部員外郎。建中初、秘書少監。殷寅・顔真卿・柳芳・陸拠・蕭穎士・李華・邵軫と親交し「殷顔柳陸、李蕭邵趙」と称された。清貧な生活を貫き人々に慕われた。涇原兵の反乱時、山谷に逃げ病没、華州刺史追贈。
- 趙宗儒は進士に及第、校書郎から陸渾主簿を経て右拾遺・翰林学士。父の秘書少監転任と同日拝命という徳宗の特別な計らいがあった。司勲員外郎。貞元6年(790年)、考功事を掌り、それまで形骸化していた考課制度を厳正に運用(右司郎中独孤良器・殿中侍御史杜倫の降考など)、進んだ考功郎中。給事中を経て12年(796年)、同中書門下平章事、金紫の服を賜った。2年で罷免され太子右庶子として屏居、吏部侍郎に召された際、帝から父との縁を懐かしまれた。元和初、検校礼部尚書・東都留守。荊南・山南西道・河中の節度使を歴任、御史大夫、吏部尚書。
- 穆宗代、賢良方正挙の試験制度を有司試へ戻す旧例を主張し実現。検校右僕射・太常卿。教坊の楽舞の私的流用を宦官に求められ抵抗できず不興を買い太子少師に左遷。太和初、太子太傅。文宗の政理諮問に「堯舜の徳は慈儉のみ」と答え嘉納された。太和6年(832年)司空、致仕、87歳で死去、司徒追贈、諡は昭。文学で将相に至ったが儀矩に欠け、瑣末な事柄で評判を落とした面もあったという。