新唐書卷一百五十一 列傳第七十六 袁滋

生涯

  • 袁滋は字を德深といい、蔡州朗山の人、陳の侍中袁憲の後裔。博学強記。道州刺史元結に師事し独学で経義を修めた。荊・郢の間で学舎を開き講義を行った。建中初、黜陟使趙賛の推挙で試校書郎、張伯儀・何士幹の幕府を経て詹事府司直。冤罪の弁護で御史中丞韋貞伯に見出され侍御史。刑部・大理の裁判の不公正を権勢に屈せず正した。
  • 韋皋の南詔招撫策に応じ、他の郎吏が尻込みする中、単身赴くことを申し出て徳宗に評価された。祠部郎中兼御史中丞として南詔使を務め、諫議大夫、尚書右丞(吏部選事)を経て、外遷を望み華州刺史。流民に土地を与える善政(「義合裏」の命名)を行い、細かな法規を設けず慈恵を旨とした。左金吾衛大将軍への転任時、耆老に慕われ後任の楊於陵が「袁公の政を変えぬ」と約して民を安んじた逸話がある。
  • 憲宗監国時、中書侍郎・同中書門下平章事。劉闢討伐の安撫大使として赴くも、兄袁峰が劉闢に人質同然に扱われていたため進軍を渋り吉州刺史に左遷。義成節度使として滑州で武備と信義を両立させ、李師道・田季安を畏服させた。7年の在任で百姓が祠を建てた。戸部尚書、山南東道節度使、荊南節度使を歴任。
  • 呉元濟討伐では蔡兵の強さを見て持久策を主張、朝廷の厭戦気分を察して罷議を求めるが情勢を見て翻意、高霞寓の敗戦後、彰義節度使として恩信による懐柔を試みたが、祖先の墓が蔡州にある縁もあって元濟と通じ油断を招く結果となり、成果を上げられず撫州刺史に左遷。湖南観察使を経て70歳で死去、淮陽郡公、太子少保追贈。
  • 病中に自ら遺言を整え三年分の後事を条書きしたという。寛容な性格で人と接する際は本心を見せたが家人にすら喜怒を見せなかった。『春秋』に通じ、劉惲『悲甘陵賦』の善悪の是非を論じた続篇を著した。篆隷にも巧みであった。子の袁均は右拾遺、袁郊は翰林学士。