新唐書卷一百五十一 列傳第七十六 董晉
河中虞郷の人、字は混成。明経に及第。李懐光の反乱の際、説得によってその離反を防いだ功で知られる。貞元5年(789年)に宰相となり、竇參の失脚に関わった後、東都留守を経て宣武節度使代理として赴任し、軍紀の粛正に努めた。76歳で死去、太傅を追贈され諡は恭恵。
生涯
- 董晉は字を混成といい、河中虞郷の人。明経に及第。粛宗の彭原行在に上書し秘書省校書郎・待制翰林。淮南崔円の判官を経て祠部郎中。
- 大暦中、李涵の崇徽公主降嫁使の判官として、回紇の傲慢な問いかけ(馬貿易の不公平さの詰問)に毅然と反論し、諸戎を屈服させた逸話がある。秘書少監。徳宗即位後、太府卿、左散騎常侍兼御史中丞、華州刺史。朱泚の乱で華州を放棄し行在に走った。国子祭酒として恒州宣慰。
- 河中で李懐光の反乱に説得を試み(「朱泚に仕えるより唐に忠を尽くすべき」との説得で懐光を感涙させた)、その離反を防いだ。左金吾衛大将軍、尚書左丞。元琇の冤罪を弁護する義気を示した。
- 貞元5年(789年)、門下侍郎・同中書門下平章事。竇參の専権時代も謹慎に努め、竇參の姪の登用要請を帝に率直に伝え、帝が竇參の過失を問うと隠さず答え、結果として竇參の失脚を招いた。上疏して辞職を求めたが貞元9年(793年)、礼部尚書に左遷、東都留守。
- 宣武節度使李万栄の死に伴い節度使代理として単身赴任、部将鄧惟恭の実権を静かに掌握し粛清、軍紀を保った。財政は孟叔度に委ねたが、その放埒が軍の不満を招いた。5年間の在任後、76歳で死去、太傅追贈、諡は恭恵。
- 宰相在任中の礼制論議(喪服規定、冠冕の制など)で朝儀を正した逸話がある。子の董渓は度支郎中として軍資横領の罪に問われ流刑先で賜死。孫の董居中は詩才で張籍に称された。
附 陸長源――生涯
- 陸長源は呉の人、字は泳。祖父陸餘慶は太子詹事。学識深く昭義薛嵩の幕府に招かれ、その侈汰を諫めた。建・信二州刺史、韓滉の江淮転運使副。汝州刺史を経て宣武に転じ実質的な統治を担った。
- 軍紀粛正を図るも董晉に抑えられ、董晉の死後に総留後事として厳格な統治を試みたが、軍への慰労の減額(鹽の高値・帛の安値換算による不公平)が軍の激怒を招いた。「厚賜による懐柔」を勧める周囲に「河北の賊のような買収はしない」と応じたが軍乱で殺害され食われた。節度使拝命の詔が届いたのはその死の直後で、尚書左僕射を追贈された。
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清廉で無威儀な性格、去任時に持ち出した荷物はわずか2台の車だけだったという(祖父の先例を引いて自らを恥じた逸話)。
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陸長源の死後、監軍俱文珍が宋州刺史劉全諒を後任に招いたが、赴任の夜にも軍乱が再発、大将ら五百人が殺害された。全諒は検校工部尚書・宣武節度使を拝命。
- 劉全諒(本名逸淮)は懐州武渉の人、父劉客奴(賜名正臣)は室韋討伐の功で将となり、安禄山の乱に際し平盧軍の内紛を経て柳城郡太守・平盧節度使を拝命したが范陽襲撃の失敗で殺害された。全諒自身は劉玄佐の牙将から劉士寧の代に汴将の心を得て、劉全諒の代に節度使代理となったが8か月で没し、尚書右僕射追贈。軍中は韓弘を後任に立てた。