新唐書卷一百四十八 列傳第七十三 史孝章

生涯

  • 史孝章は字を得仁といい、修まった人柄。父史憲誠は戦功で名を上げたが、孝章は謙譲を守り『詩』『書』を語る学徒風であった。魏博節度使李愬に文才で認められ都督府参軍。
  • 憲誠が魏博を得た後、父の不法行為を密かに諫めたが完全には聞き入れられなかった。文宗にその才を評価され節度副使、検校左散騎常侍。父の李同捷援助計画に反対し憲誠もその義に配慮した。討伐出兵を勧め、実際に憲誠が出師すると孝章がその軍を統率、入朝の礼遇を得た。
  • 父の入朝要求が帝に真意でないと見抜かれた際、孝章の忠誠に免じて相・衛・澶を分けて孝章を節度使に任じたが、赴任前に魏博で軍乱が起き父は陣中で死去。帝は史氏の禍を憐れみ孝章に喪を明けさせず右金吾衛将軍を拝させた。鄜坊節度使、検校戸部尚書を経て邠寧から病により帰る途中、39歳で死去、尚書右僕射追贈。本名は唐、のち孝章と改めた。

史憲忠(史憲誠の弟、史孝章の従父)――生涯

  • 憲誠の弟史憲忠は字を元貞といい、若くして魏の牙門将。田弘正の斉・蔡討伐で三十戦の先鋒を務め名を上げた。憲誠の推挙で貝州刺史。魏の乱で京師に奔り隴州刺史などを歴任、防備を固めた。
  • 会昌中、三原城築城に伴う吐蕃の犯境に対し涇原節度使として毅然と対応(吐蕃の墮城要求を拒み、殺害者の引き渡しを求めるなど)、吐蕃を服させた。涇の灌漑と備蓄整備で戍卒を安んじた。党項の内寇に際し慎重な対応で乱を鎮めた。
  • 大中初、突厥の河東侵犯に対し振武軍節度使として現地の不正(強制的な馬牛の徴発)を是正、清廉を旨として「私財を使えば良馬に困らぬのに、なぜ辺境で豪奢な取引をしよう」と語った逸話がある。北海県子、検校尚書左僕射・金吾大将軍を経て左龍武統軍。71歳で死去、司空追贈。