新唐書卷一百四十九 列傳第七十四 劉晏

曹州南華の人、字は士安。8歳で頌を献じ神童と称された。安史の乱後、代宗朝で度支・塩鉄・転運・鋳銭使を歴任し財政再建に尽力、江淮漕運の再興と塩の専売制度の精密化で歳入を大幅に増やした功臣。楊炎との対立から誣告を受け、建中元年(780年)、65歳で賜死。冤罪とみなされ、後に帰葬・追贈が行われた。

年表(4件)
  • 建中末兄の劉暹、御史大夫に召される
  • 興元初帝は誤りを悟り帰葬を許す
  • 建中元年780年賜死の詔により65歳で死去。19日後に罪状が公表される
  • 貞元5年789年子の劉執経・劉宗経が官職に任じられ、追贈が行われる

生涯

  • 劉晏は字を士安といい、曹州南華の人。玄宗の泰山封禅の際8歳で頌を献じ、宰相張説に「国の瑞」と評され太子正字を授けられ「神童」として名を馳せた。天宝中、地方官として賦役に督責せずとも滞納なく治績を上げた。賢良方正挙に応じ温令として恵政を行った。
  • 安禄山の乱で襄陽に避難、永王李璘の招きを固辞し房琯に封建論を論じる書を送った。度支郎中・江淮租庸使として呉郡にいた際、永王の乱が起きたが采訪使李希言と共にこれを拒み義兵を興した。乱後、彭原太守、隴・華二州刺史、河南尹を経て戸部侍郎・度支塩鉄鋳銭使を兼ねた。司農卿嚴莊の獄に連座して通州刺史に左遷された。
  • 代宗即位後、京兆尹・戸部侍郎に復し、度支・塩鉄・転運・鋳銭・租庸使を統括。大乱後の京師の窮乏に対し、自ら淮・泗・汴・河の水路を実地調査し(三門峡、汴渠、宇文愷の梁公堰、李傑の新堤跡なども視察)、宰相元載に漕運の利害を説く書簡を送った(漕運の四つの利点、四つの障害を具体的に列挙)。元載の支持を得て漕運を委ねられ、歳に四十万斛を輸送、関中は水旱にかかわらず物価が安定した。帝は「卿は朕の酂侯(蕭何)である」と称えた。
  • 吏部尚書、益・湖南・荊南・山南東道転運使を兼ね、第五琦と共に天下の財政を分掌。元載の獄では慎重に他の官と共同で審理し、王縉の死罪を免れさせた。
  • 宰相常袞に忌まれ左僕射に祭り上げられそうになったが、帝の裁定で使職を維持。租庸使を各道に配置し士人を厳選登用(「士は爵禄あれば名を利より重んじる」との人材観)、行政の実務を吏に任せず士人自ら検劾する体制を確立した。塩の専売では第五琦の制度を継承しさらに緻密化し、歳の塩収入を当初60万から1200万に増やした(専売分がその過半)。京師の塩価高騰時には揚州から四十日で三万斛を届け「神」と称された。諸道に巡院を置き、遠方の物価情報も数日で把握し「銭が地上を流れるのを見るがごとし」と自称した。
  • 江淮の茗橘の献上を巡る他府との先陣争い、四方の名士への贈答による評判維持など、権謀の面も指摘された。大暦の政治は劉晏に依存する部分が大きく検証されないままだったが、徳宗即位後、転運使の廃止論が度々出るも固辞は許されなかった。
  • 楊炎との確執(吏部時代からの対立)が深まり、楊炎が宰相となると元載の報復として劉晏を追及、独孤妃擁立の陰謀に関与したとの流言を利用され忠州刺史に左遷。庾準を荊南節度使に立て「劉晏が朱泚に怨望の書を送り、兵を隠匿し詔使を脅した」と誣告させた。
  • 建中元年(780年)7月、賜死の詔が下り65歳で死去。19日後にようやく詔書が公表されその罪状が暴かれた。家族は嶺表に流され、天下はその死を冤罪と見た。籍没された家財は雑書と若干の米麦のみで、その清廉ぶりが評判となった。淄青節度使李正己が「証拠もなく先に誅してから詔を出すのは天下を驚かせる」と批判、興元初、帝は悟り帰葬を許した。貞元5年(789年)、子の劉執経が太常博士、劉宗経が秘書郎に任じられ、追贈が行われた(鄭州刺史、のち司徒)。
  • 劉晏の没後20年、その部下だった韓洄・元琇・裴腆・李衡・包佶・盧徵・李若初らが相次いで財政を担い名を上げた。旧吏陳諫は劉晏を管仲・蕭何に比する論を著し、その業績(大乱後の戸口激減への対応、船頭・捉駅・白著といった苛斂の名目の廃止、常平法による豊凶調整など)を詳しく記した。

附 元琇――生涯

  • 元琇は尚書右丞・判度支として横斂なく軍を賄ったが、韓滉に忌まれ雷州司戸参軍に左遷、広州への私的往来の罪で賜死。

附 裴腆――生涯

  • 裴腆は兵部侍郎・判度支、聞喜県公に封じられた。

附 李衡――生涯

  • 李衡は戸部侍郎を歴任。

附 包佶――生涯

  • 包佶は字を幼正といい、潤州延陵の人。父包融は集賢院学士として賀知章・張旭・張若虚と共に「呉中四士」と称された。進士に及第、諫議大夫に至るも元載への親交で嶺南に左遷、劉晏の起用で汴東両税使に復帰。塩鉄軽貨銭物使、刑部侍郎、秘書監、丹陽郡公。

附 盧徵――生涯

  • 盧徵は幽州の人、劉晏の推挙で殿中侍御史。劉晏の獄に連座して珍州司戸参軍に左遷、のち元琇の推挙で員外郎、元琇失脚後も秀州長史から給事中に復帰。竇參に信任されたが、同州刺史人事を巡り徳宗の意向で寵愛が薄れ、のち華州刺史として過重な徴収で民を苦しめた。

附 李若初――生涯

  • 李若初は劉晏の下級官吏から、包佶の推挙で太康令となり刺史李芃に厚遇された。浙東観察使、浙西観察使兼塩鉄使を歴任、貨幣流通の規制緩和策を建議し実現、死去、礼部尚書追贈。

劉暹(劉晏の兄)――生涯

  • 劉晏の兄劉暹は汾州刺史、性は疾悪で厳格な人柄。建中末、御史大夫に召された。宰相盧杞はその厳格さを憚り前河南尹於頎を代わりに推薦した。劉暹は潮州刺史で終わった。

於頎――生涯

  • 於頎は字を休明といい、河南の人。京兆士曹参軍から尹史翙に重用され判官。史翙の死後、遺体を収葬した誼で知られた。京兆尹として機知に長けたが政治は煩雑で大局観を欠き、元載に取り入った。元載失脚後は鄭州刺史、河南尹、佞柔さから大夫に至るも、朝礼での不祥事で御史に劾され太子少師で致仕、死去。
劉潼(劉暹の孫)――生涯
  • 劉暹の孫劉潼は字を子固といい、進士に及第、杜悰の判度支の巡官から祠部郎中。党項討伐の軍食供給使として活躍。京兆少尹を経て、山南の賊討伐に際し招撫使として単身賊塁に赴き降伏を得た。
  • 辺事への進言で右諫議大夫、朔方・霊武節度使、鄭州刺史、湖南観察使、左散騎常侍を歴任。昭義・河東・西川節度使として、南詔討伐で苦戦する李福を支援、蛮族の内応する六姓蛮を討ち五千を捕虜とし南詔を畏怖させた。検校尚書右僕射、死去、司空追贈。