生涯
- 牛元翼は趙州の人。才略に富み、王承宗の代に傅良弼と共に将の双璧とされた。王廷湊の反乱に際し、穆宗は元翼を深冀節度使に抜擢し軍の分断を図った。廷湊はこれに怒り攻撃、朱克融と結んで包囲した。詔により成德軍節度使に進み宣武の援軍を得て固守。
- 長慶2年(822年)、廷湊の罪を赦す詔が出され、元翼は山南東道に転じ深州を廷湊に譲ることとなったが、廷湊は恨みを抱き兵を解かなかった。招討使裴度の書状で朱克融は撤退したが、廷湊は退かず、元翼は十余騎で囲みを突破し帰京した。廷湊は元翼の親将臧平ら百八十人を惨殺、元翼の家族送還を巡っても引き延ばしたが、魏博節度使史憲誠の説得で田弘正の柩は帰還した。元翼は臧平らの死を聞き憤慨して没した。
附 傅良弼――生涯
- 傅良弼は字を安道といい、清河の人。弓術で軍中に冠絶した。徳宗代、樂寿を守り李寛(博野を守備)と共に成德配下として、廷湊の叛乱時にも堅く守り抜き左神策行営の都知兵馬使となった。天子から奴婢・服馬を賜り、左神策軍将軍、寶暦初、夏綏銀節度使、横海節度使で終わった。李寛も保義軍節度使に至った。
- 王智興の李同捷討伐時、烏重胤没後の後任として横海節度使になったが、軍の暴行の噂を憂い調発を控え、棣州平定後は自ら請うて京師に留まり夏綏宥節度使で没した。
- 廷湊の乱では十五万の連合軍が功を上げられぬ中、樂寿・博野の二城が孤立しながらも数年守り抜いたことは難事とされた。敬宗代、傅良弼はその功績を上表した。