新唐書卷一百四十三 列傳第六十八 高適

生涯

  • 高適は字を達夫といい、滄州渤海の人。若くして落魄し生業に努めなかった。梁・宋の間で客居し、宋州刺史張九皋に見出され有道科に及第、封丘尉となるも志に合わず辞した。河西節度使哥舒翰の書記として左驍衛兵曹参軍。
  • 安禄山の乱で哥舒翰討伐軍に従い左拾遺・監察御史として潼関を守った。潼関陥落後、玄宗に策を献じたが用いられず、天子の西幸を追って河池で謁見、哥舒翰の敗因(監軍の宦官による軍務干渉、飢えた将兵に無理な戦を強いたこと等)を詳しく述べ、玄宗の理解を得た。侍御史、諫議大夫に抜擢され、諸王の分鎮に反対して永王の反乱を予見的中させた。永王討伐に淮南節度使として参戦するも、李輔国に才を疎まれ太子少詹事に左遷された。
  • 蜀の乱の際、蜀・彭二州刺史。上疏で剣南を東西に分割する不合理を論じ(西川の財政負担、辺境城塞の維持費用など)た。段子璋の乱を崔光遠と共に討伐したが崔光遠の略奪により罷免され、代わって西川節度使となった。広徳元年(763年)、吐蕃の隴右侵攻に対し出兵するも戦果は上がらず松・維二州と雲山城を失った。刑部侍郎・左散騎常侍、渤海県侯。永泰元年(765年)死去、礼部尚書追贈、諡は忠。
  • 節義を重んじ王覇の議論を好んだ。功名を自ら任じたが言葉が実際より誇張され、士大夫には推されなかった。政治は寛簡で人々に便益をもたらした。50歳で初めて詩作を始め、直ちに巧みで気骨があり、その作は世に広く伝わった。賀蘭進明への援軍要請の書や許叔冀への和解の書、永王討伐前の各軍への布告など、君子はその義と機転を評価した。