新唐書卷一百四十二 列傳第六十七 路隋

生涯

  • 路隋は字を南式といい、その先は陽平の出。父路泌は『五経』に通じ孝悌で知られた。建中末、長安尉として徳宗の奉天出奔に従い、李懐光討伐にも参加。渾瑊に従い平涼の会盟に出席した際、吐蕃に捕らえられ命を落とした。
  • 路隋は幼くして父の捕囚を知り昼夜号泣し、成人後も母の言葉に従い鏡を見なかった。貞元末、吐蕃との和議を三度上疏したが用いられなかった。李锜に困辱されても屈せず、韋夏卿に見出され幕府に招かれた。元和中、吐蕃との和議を五度上疏し父の帰還を求め、詔許可、父の喪と共に絳州刺史を追贈された。左補闕・史館修撰として鯁直で知られた。
  • 穆宗代、韋處厚と共に侍講学士、中書舎人、翰林学士。制書発布のたびの謝礼を拒否した清廉な逸話がある。承旨学士、兵部侍郎。
  • 文宗即位後、中書侍郎同中書門下平章事、監修国史。韓愈の『順宗実録』改訂を巡り、宦官の圧力に抗して史書の正当性を守る建言を行い、一部の失実箇所のみ改訂させた。門下侍郎・弘文館大学士。病により辞そうとするも許されず太子太師。翌年、李德裕の左遷を巡り鄭注に疎まれ、検校尚書右僕射・同中書門下平章事・鎮海節度使として出鎮する途上で病没、60歳、太保を追贈され諡は貞。

史論

  • 賛にいう。楊綰は徳をもって人を服させ、人が自ら感化された。その議論の大きさは、古の王佐にも劣らない。崔祐甫は李正己の隠情を見抜き、柳渾は吐蕃の背盟を予見した。謀を伐って先を知る、まことに君子である。韋處厚は穆宗・敬宗・文宗の三代に仕え、主君はいずれも凡庸だったが、一貫して忠をもって仕えた、堯に仕えるがごとしと言うべきか。路隋は十年にわたり輔政し、牛僧孺・李德裕・鄭注ら権臣の勢力交代を経てもよくその位を保った。