新唐書卷一百四十二 列傳第六十七 韋處厚

生涯

  • 韋處厚は字を德載といい、京兆萬年の人。継母に孝を尽くし、廬墓で喪に服した。進士および才識兼茂科に及第し集賢校書郎、賢良方正異等挙で史館に直した。憲宗初、左補闕。李絳の諫言論に対し「韋處厚・路隋の忠切な上疏を知らないだけだ」と憲宗が評した逸話が伝わる。
  • 穆宗の学問怠慢を憂い路隋と『六経法言』二十篇を編纂して献上。中書舎人時、塩の官営を建言した張平叔の議論を十の難点で論破し撤回させた。
  • 敬宗初、李逢吉の讒言による李紳左遷に反対し免罪させた。逢吉の恩赦除外に対しても再度異議を唱え撤回させた。翰林承旨学士・兵部侍郎。敬宗の政務怠慢に「先帝の早逝への諫言不足の罪」を自ら述べて感悟させた。王廷湊の乱に際し裴度の重用を進言した。
  • 文宗の内難の際、素早く「春秋の大義滅親」の理を説き号令を発し、事態を収拾。中書侍郎・同中書門下平章事、霊昌郡公。堂史の権力乱用を戒め、州官人事の澄清を図った。文宗に信任され、裴度・竇易直の重用や李載義の残虐行為の是正なども献策した。大和2年(828年)、奏事中に急病で倒れ、一昼夜で薨去、56歳、司空を追贈された。
  • 剛直な性格で権威に屈せず、人材登用も公平を旨とした。学を好み蔵書は万巻に及んだ。『徳宗実録』を撰し、路隋と共に『憲宗実録』の編纂にも携わったが未完で没した。本名は淳、憲宗の諱を避けて改名した。