新唐書卷一百四十二 列傳第六十七 柳渾

生涯

  • 柳渾は字を夷曠、また惟深といい、本名は載。梁の僕射柳惔の六世孫。早くに父を失い、巫の予言に従わず学問に励んだ。天宝初、進士に及第。単父尉、衢州司馬を経て武寧山に隠棲。監察御史に召されたが自由な性格で外職を求めた。宰相の慰留で左補闕。
  • 大暦初、江西観察使魏少游の判官として、無実の罪を晴らす功があった。袁州刺史、崔祐甫の推挙で諫議大夫・浙江東西黜陟使、尚書右丞。朱泚の乱で終南山に隠れたが賊に子を捕らえられ拷問された。乱後、名の「載」の字が「戈」を含むことを嫌い柳渾と改名した。
  • 貞元元年(785年)兵部侍郎、宜城県伯。李元平の登用に反対する的確な進言で知られる。貞元3年(787年)同中書門下平章事。帝が京兆尹の人事を自ら決めたことに祝賀一色の中、独り「これは京兆尹の職務に過ぎない、陛下は臣らを選んで聖徳を輔けるべき」と諫めた。玉工の欺瞞事件で法に則った処罰を進言し工人の死罪を免れさせた。田季羔の子伯強が私財で募兵しようとしたのを風教を損なうとして退けた。
  • 韓滉の専横に苦言を呈し改めさせ、白誌貞の浙西観察使就任に死をもって反対した。平涼での吐蕃との会盟で、馬燧の楽観論に対し「夷狄は信で結べない」と警告、翌夜の吐蕃による盟約破りを予見的中させた。宰相張延賞の脅しに屈せず「頭は断てても舌は禁じられない」と応じた。右散騎常侍で罷免、75歳で死去、諡は貞。
  • 母方の兄柳識は蕭穎士・元德秀・劉迅と並ぶ知名の文人。柳渾もまた文に優れたが思索の深さは柳識に及ばなかった。