新唐書卷一百四十一 列傳第六十六 李澄
生涯
- 李澄は遼東襄平の人、隋の蒲山公李寛の末裔。江淮都統李亙の偏将から永平節度李勉の軍に転じ、勉が汴州を治める際に滑州刺史となった。李希烈が汴州を陥落させると滑州で降伏し、希烈により尚書令・永平軍節度に任じられた。
- 興元元年(784年)、密かに使者を送り徳宗に帰順を申し出て、刑部尚書・汴滑節度使に任じられた。希烈に疑われ養子六百人を配され監視されたが、寧陵攻めの際に養子らを謀って皆殺しにし、希烈の疑念を晴らした。希烈の将翟崇暉が敗れると希烈は汝南に敗走した。
- 汴州奪還の戦いで劉洽と功を争ったが、鄭州の帰順を得て、河陽の雍希顥との衝突後も鄭州を確保した。貞元初、検校尚書左僕射・義成軍節度使に昇進。貞元2年(786年)、54歳で死去、司空を追贈された。隴西公から王爵に進んだが、上奏文に常に二つの封号を重ねて署名し、士大夫に笑われた。
- 死後、子の李克寧が喪を秘して権力を握ろうとし、行軍司馬馬鉉を殺害するなど混乱を招いたが、劉洽の説得で収束した。詔により賈耽が後任となった。