苗晉卿
- 苗晉卿は字を元輔といい、潞州壺関の人。世々儒学の家として知られた。進士に及第し修武尉に任じられ、吏部郎中・中書舎人を経て吏部の選事を掌った。人々が不満をぶつけても終日怒りの色を見せなかった。
- 天宝2年(743年)、判入等の選抜で64人を選び甲乙丙の三科に分けたが、御史中丞李倚の子張奭を首席に置いた。張奭は実力がなく、試験で一日筆が動かず「曳白」と世に嘲られた。安禄山の告発で玄宗が花萼楼にて再試験したところ実力のある者はわずか一、二割にとどまり、玄宗は激怒して李倚・宋遙・苗晉卿をそれぞれ左遷した(苗晉卿は安康太守)。
- 翌年、魏郡太守・河北采訪使に転じ、治績を上げた。のち河東郡・撫風郡の太守を歴任し高平県男に封じられ、工部尚書・東都留守を経て憲部(刑部)に召された。安禄山の乱で竇廷芝が陝郡を放棄すると、楊国忠の忌みにより陝郡太守・陝虢防禦使に任じられたが、玄宗に老齢を理由に固辞し、忤旨により致仕を許された。長安陥落時には金州へ間道を通って逃れた。
- 粛宗が扶風に至ると召されて左相を拝命。長安平定後、韓国公に封じられ食邑五百戸、侍中に改まった。玄宗崩御に際して冢宰摂行を命じられたが固辞し、代宗の代でも同じく固辞して免れた。李輔国の常侍就任に反対して阻止した。吐蕃が長安を犯した際は病床にあり、脅されても口を閉ざし節を守った。
- 永泰初(765年)、81歳で死去。太師を追贈され、諡は初め懿献とされたが、宰相となった元載が旧恩により司に働きかけて文貞に改めさせた。
- 十子あり、発・丕・堅・粲・垂・向・呂・稷・望・咸という。子の粲は徳宗の代に郎中に至ったが、陸贄が昇進を進言しても徳宗は「苗晉卿はかつて不臣の言があった」として許さず、粲の官途は栄達しなかった。