新唐書卷一百四十 列傳第六十五 裴冕

裴冕

  • 裴冕は字を章甫といい、河中河東の人。名門の子として蔭により渭南尉に再任された。京畿采訪使王鉷の判官となり、殿中侍御史を歴任。王鉷が罪を得て廷弁に処された際、位の低い裴冕がその冤を強く弁じ、王鉷の死後は誰も憚る中、独り葬儀を執り行い名を知られた。河西節度使哥舒翰の行軍司馬を務めた。
  • 玄宗の蜀行幸に際し、太子(のちの粛宗)の御史中丞兼左庶子副となる。霊武で杜鴻漸・崔漪と共に太子の即位を進言し(757年)、五度の固辞を経て説得に成功した。粛宗即位後、中書侍郎・同中書門下平章事に進んだ。売官・僧道の度牒発行により軍資を調達したが、廉価な取引で世評は芳しくなかった。
  • 粛宗が鳳翔に至ると政事を罷免され尚書右僕射に。両京平定後、冀国公に封じられ実封戸五百を得て、剣南西川節度使として出鎮。のち右僕射に復し、山陵使を兼ねる。判官劉烜の失脚に連座して降格された。
  • 大暦中、郭子儀の推挙により左僕射・同中書門下平章事に復帰。参内の際は立つこともできず、元載に助けられた。まもなく没し、太尉を追贈された。
  • 忠勤ではあったが宰相としての大局観に欠け、性格は豪奢で、乗馬や饗宴の贅を尽くし、自ら考案した頭巾は「僕射巾」として流行した。世人はその蓄財の性癖を非難した。肅宗廟には苗晉卿のみが配享されていたが、裴冕の没後二十余年、蘇正元の上奏により裴冕も配享されることとなった。