生涯
- 裴遵慶は字を少良といい、絳州聞喜の人。幼くして学を強め、蔭により興寧陵丞に任じられ大理丞に転じた。辺将蕭克済の苛政に対して民が不満を漏らしたのを大逆罪とする訴えを退け、数十族の命を救った。
- 天宝年間、吏部員外郎として南曹の選考を判じ、公正な人物評価で「吏事第一」と称された。粛宗代に吏部侍郎、蕭華の推挙で黄門侍郎・同中書門下平章事。代宗初、僕固懐恩の反乱に際し宣慰の詔を奉じたが、懐恩の部将范志誠に阻まれた。
- 老齢を理由に集賢院待制、吏部尚書、尚書右僕射などを歴任し、朝廷は特に自宅で選官を行うことを許した。大暦10年(775年)、90余歳で死去。若い頃著した『王政記』で治乱の要諦を論じ、宰相の器を持つと評された。
裴向――生涯
- 裴向は裴遵慶の子。蔭により官途に就く。建中初、同州刺史李紓の判官となる。李懐光が河中で叛くと、部将趙貴先に同州を攻められたが、裴向は単身で説得し降伏させ、同州を守り抜いた。櫟陽・渭南の令として治績第一を得て戸部員外郎に昇進。太原少尹・行軍司馬、陝虢観察使を歴任し、吏部尚書で致仕。学識と徳行で一族の内外百余口を扶養し孝睦で知られた。80歳で死去、太子少保を追贈された。
裴樞――生涯
- 裴向の孫(子裴寅の子)裴樞は、咸通中進士に及第。杜審権・王鐸らの幕府を経て、給事中・京兆尹などを歴任。朱全忠と親密な関係を築き、戸部侍郎同中書門下平章事、右僕射、諸道塩鉄転運使を歴任。哀帝の代、柳璨が実権を握る中、朱全忠の部将張廷範の太常卿就任に異を唱えたことで朱全忠の怒りを買い、柳璨により罷免される。左僕射に貶され、さらに登州刺史、瀧州司戸参軍と流され、滑州から白馬駅で朱全忠の手で殺害され、屍は河に投じられた。享年65。朱全忠の腹心李振の「清流を投じて濁流となせ」との言葉が伝わる。