新唐書卷一百三十九 列傳第六十四 李泌

四代の帝に仕えた策士

  • 李泌、字は長源、魏の八柱国李弼の6世孫。7歳で文才、玄宗の御前弁論会で九齢の員俶を通じ召され、張説との棋論比喩の応酬(「方円動静」の議論)で才を示し「精神は身より大きい」と絶賛された。張九齢に「小友」と呼ばれ、嚴挺之と蕭誠の是非を巡る鋭い進言も行った。
  • 博学で『易』に通じ、神仙術を慕い嵩山・華山を巡遊。天宝中、『復明堂九鼎議』を献じ翰林待詔・東宮供奉。楊国忠・安禄山を風刺する詩で疾まれ蘄春郡に流された。
  • 粛宗即位で招かれ客分として国事を議論、元帥広平王(代宗)の行軍司馬に。建寧王の元帥擁立論に対し「広平は嫡嗣、呉の太伯のように譲位させてはならぬ」と進言、太子の地位を守った。
  • 粛宗の李林甫への復讐の念を「上皇の慚愧を招く」と諫め親子の情を保たせた感動的な場面(帝が泌の首を抱いて涙した)が伝わる。両京回復の戦略(河北諸将の分断策、范陽先行攻略論)を献策したが、長安優先を望む帝には容れられなかった。
  • 上皇(玄宗)の帰京を巡る駆け引き、代宗立後は隠棲と出仕を繰り返し、元載・李輔国・崔円・常袞ら権臣に疎まれつつも要職を歴任。徳宗の奉天行幸では李懐光の赦免に反対する「桐葉」の比喩を用いた進言、吐蕃への安西・北庭割譲に反対し関中防衛を主張した。
  • 貞元3年、中書侍郎同中書門下平章事。張延賞の官員削減策を「冗員は削るべきだが正員は削るべきでない」と精緻に修正、諫官制度の運用も改善。太子廃立論に対しては命を賭して反対し、太子(順宗)を守り抜いた。
  • 財政面では堂封の旧制復帰、方鎮からの私的献納の抑制など提言。盧杞の評価を巡る帝との対話で建中の乱の教訓を説き、運命論を退ける合理的姿勢を見せた。天文異変を機に自らの死期を予見し、翌年、享年68で没、贈太子太傅。
  • 縦横家的な大言と讖緯・鬼神説への傾倒が併存する複雑な人物像として描かれ、批判も多かったが、両京回復への功績は柳玭に「魯連・范蠡を凌ぐ」と評された。

李泌の子・繁

  • 才気はあるが素行に難あり。陽城の疏に関わり裴延齢に密告される不祥事、梁粛の死後にその室を汚す醜聞で長く擯斥された。太常博士・大理少卿・弘文館学士を経て亳州刺史として賊の掃討で成果を挙げるも越権を咎められ賜死、京兆の人々に冤罪と惜しまれた。獄中で父の事績が失われることを恐れ『家伝』10篇を著した。

李泌についての史論

  • 賛にいう、泌の人となりは実に異色である。その謀事は忠に近く、その進退の潔さは高節に近く、その保身の術は智に近く、ついに宰相に上ったのは功名を立てた者に近い。粛宗が乱世に朝廷を再建した際、片言の献策が数多く用いられた。代宗の両京回復にも貢献したが独り記録されなかったのは、二帝が泌を宰相の器と認めなかったからだろうか。徳宗が晩年に鬼神を好んだことでようやく重用されたのは、泌自身が怪異を身にまとうことで助けとしたためとも言える。子の繁が著した『家伝』には泌が鬼谷に住んだと記すが、史臣は好んで鬼道を語ったと誤り伝え自ら解釈を加えたようだ。また泌が仙人と交わったとの言は経のないものだが、当時の議者が切実に反発したのには理由があったのだろう。繁の言は誇張が多く信じがたいが、事実に近い部分を採ってここに記した。范陽を先に攻めるべしとの献策、太子(順宗)の無実を明らかにした功績は、決して誣うべきではない。