新唐書卷一百三十一 宗室宰相 李適之・李峴・李勉・李夷簡・李程・李石・李回

李適之――華山金採掘の讒言に落ちた宰相

  • 李適之、恒山湣王の孫、始めの名は昌。神龍初、左衛郎将。通州刺史として辦治で評価され秦州都督、陝州刺史・河南尹を歴任。谷水・洛水の氾濫対策として上陽・積翠・月陂の三大堤を築造、御史大夫を経て幽州長史として節度事を知る。
  • 祖父の廃位・父の放逐による埋葬の不備を陪葬の形で補うよう願い出て許された。刑部尚書として賓客を好み大酒を飲んでも乱れず、昼夜を分かたず政務を処理した。
  • 天宝元年、牛仙客に代わり左相、清和県公。李林甫と権力を争い、林甫の「華山に金脈があるが陛下は御存知でない」との誘導に乗って帝に奏上したところ、林甫が「華山は帝の本命の地で採掘できぬ」と裏で説明し帝の不興を買った。皇甫惟明・韋堅・裴寛・韓朝宗ら親交の深い人物が次々林甫に陥れられ、適之は太子少保に退いて自ら禍を逃れたと安堵していたが、のち韋堅の連座で宜春太守に左遷、御史羅希奭の処刑の噂に怯え服毒自殺した。

李峴――寛政で知られた宗室宰相

  • 李峴、呉王恪の孫。天宝時、京兆尹として玄宗の温泉行幸の贈答に一人応じず評価される。楊国忠の陰謀で安禄山の陰事を暴いた際に安禄山の怒りを買い零陵太守に左遷されたが、善政により「粟を安くしたければ李峴を呼び戻せ」と謡われた。永王の江陵大都督府長史を経て、粛宗に召され扶風太守・御史大夫、のち京兆尹・梁国公。
  • 乾元2年、中書侍郎同中書門下平章事。呂諲・李揆・第五琦と共に輔政するが位望随一で独断が目立ち反発を招いた。李輔国の専横を帝に直言し一時は牽制したが深く恨まれ、天興令謝夷甫の獄をめぐる紛糾で輔国側の毛若虛の不正を批判した際、逆に帝の怒りを買い蜀州刺史に左遷された。
  • 代宗立、荊南節度使、礼部尚書兼宗正卿を経て門下侍郎同中書門下平章事。政事堂の礼制を厳格化するも要路に讒言されて太子詹事に落とされ、吏部尚書として江淮選補使を再任、没、享年58。東京平定後の陳希烈ら降臣の大量処刑論に対し「首謀者を誅し従犯を赦す」との『書』の言葉を引き寛大な処置を主張、多くの命を救った功績が特筆される。兄亙・嶧も御史大夫等の要職に就いた。

李勉――清廉な四鎮の統率者

  • 李勉、字は玄卿、鄭恵王元懿の曾孫。父択言も吏治で知られた。勉自身は開封尉として奸を摘発、粛宗に従い監察御史、大将管崇嗣の不敬を弾劾し帝に「朝廷の尊厳を知った」と称賛された。関東の降俘の助命を進言し多くの帰順者を得た。
  • 梁州刺史、大理少卿を経て太常少卿。李輔国の請託を拒み汾州刺史に左遷。河南尹・江西観察使として賊の平定、蠱毒の讒訴を退けた逸話(「父のためならば孝である」)で知られる。京兆尹兼御史大夫として魚朝恩の圧力にも屈しなかった。
  • 嶺南節度使として馮崇道・朱済時の乱を平定、廉潔な統治で異国船の来航が急増、犀珍の器物を持ち帰らぬ清廉さで宋璟らに並ぶ名臣と評され、部民が頌徳碑を建てた。工部尚書、汧国公。
  • 滑亳・汴宋節度使として李霊耀の乱を鎮圧、汴州を得て安定させた。徳宗代、同中書門下平章事、都統として李希烈討伐を指揮するも援軍の指揮失敗で苦戦、東保睢陽で持久。興元元年、都統を辞し検校司徒平章事。盧杞への評価を問われ「天下が知る奸邪を陛下だけが知らぬのがまさに奸邪たるゆえん」と直言。太子太師で没、享年72、太傅・謚貞簡。清廉かつ礼遇に篤く、部下や兵士への配慮が厚く、琴の名手でもあった。

李夷簡――剛直な監察官

  • 李夷簡、字は易之、鄭恵王元懿の4世孫。朱泚の乱時、候吏に賊の召符を見破らせ危機を未然に防いだ功があったが元光に功を奪われ無名のままだった。
  • 官を棄てて進士及第、拔萃科にも及第。監察御史、坐事で虔州司戸参軍に左遷後、殿中侍御史・御史中丞。京兆尹楊憑の貪汚を暴き臨賀尉に左遷させ、金紫を賜り戸部侍郎判度支。
  • 山南東道節度使として無駄な軍費支出を削減。剣南西川節度使として巂州刺史王顒の不正を糾し反乱を鎮定、韋皋・于頔の私的な楽制を廃止し「前人の非を隠すため」と語った。
  • 御史大夫を経て門下侍郎同中書門下平章事。裴度に譲る形で淮南節度使に転出。穆宗立の廟号議論に建言(武功ある帝は「祖」を称すべき)したが通らなかった。齢を理由に致仕を願うも許されず、翌年没、享年67、太子太保。3鎮を歴任しながら財産を持たず、薄葬を遺言する清廉さで知られた。

李程――洒脱な才人宰相

  • 李程、字は表臣、襄邑恭王神符の5世孫。進士宏辞に及第、藍田尉として10年来の滞獄を即決した才腕。翰林学士、渭源県男。徳宗の暦法改定の意向に唯一反対し帝を思いとどまらせた逸話が伝わる。学士署への出仕が遅く「八磚学士」と綽名された。
  • 隨州刺史、成都少尹、吏部侍郎を歴任。敬宗立、同中書門下平章事として宮室・畋猟の乱費を諫め、侍講学士の設置を進言。河東・河中節度使、尚書左僕射を経て宣武・山南東道節度使を兼領。僕射の答拝儀礼を巡る議論で保守的立場を取り批判された。
  • 弁才に富むが軽薄との評もあり、武宗に「高く飛ぶ翼は長者が先を行く、卿は朝廷の翼だ」と評された。東都留守で没、享年77、太保・謚繆。

李程の子・廓

  • 進士及第、刑部侍郎。大中中、武寧節度使として軍を統制できず、補闕鄭魯の予言(「新麦の実る前に徐州は乱れる」)通り逐われた。

李石――宦官と対峙した硬骨の宰相

  • 李石、字は中玉、襄邑恭王神符の5世孫。進士及第、李聴の四鎮幕府で材略を発揮。行軍司馬として文宗に文才を評価され、工部郎中・戸部侍郎判度支を歴任。
  • 李訓の乱後、旧臣が疑われる中、李石は宰相同中書門下平章事に抜擢され度支を兼領、権勢に屈しない気骨で知られた。仇士良ら宦官の専横に対し「乱を起こしたのは訓・注だが、彼らを進めたのは誰か」と切り返し宦官を圧倒。
  • 文宗との対話で「治の難しさ」を論じ、貞観の治を目標とすべきと励まし、刑殺の過多による陰沴を戒め、財政緊縮・冗官削減を提言。詩「人生不満百」を引き国事に身を捧げる決意を語った。宦官の専横期に禁軍による自衛を提案し、金光門の兵乱騒動では鎮静に努め乱を未然に防いだ。
  • 開成の大赦令の実効性を保つよう帝に進言、興成渠開削(韓遼の献策)を支持し漕運改善に貢献したが、用人した韓益の贓罪で自らの人物眼の限界を認めた。
  • 開成3年、親仁裏で暗殺未遂に遭い(馬の尾を切られ辛くも脱出)、荊南節度使に転出。宦官の専横に対抗した功が評価される一方、憎まれ罷免された。会昌年間、河東節度使として潞州討伐の兵を出したが楊弁の反乱で逐われ、太子少傅・留守を経て没、享年62、尚書右僕射を贈られた。

李石の弟・福

  • 字は能之。進士及第、楊嗣復・崔鄲の幕府を経て校理・藍田尉。兄石の推挙で戸部郎中に累進、党項の擾乱に際し夏綏銀節度使として善政、鄭滑節度使・兵部侍郎判度支・宣武節度使・戸部尚書を歴任。蛮の侵入に際し剣南西川節度使同平章事となるが戦に敗れ蘄王傅に左遷。
  • 僖宗初、山南東道節度使として王仙芝の侵入を撃退、江陵の危機を救援。功により司空同平章事、太子太傅で没。

李回――藩鎮融和に手腕を発揮した宰相

  • 李回、字は昭度、新興王徳良の6世孫、本名躔。進士及第、賢良方正異等にも及第。李徳裕に評価され、職方員外郎判戸部案を経て中書舎人。
  • 会昌年間、劉稹討伐に際し河北三鎮の何弘敬・王元逵を説得(澤潞は自立を許された地でないと論理立てる)、張仲武と劉沔の不和も調停して合流させた。督戦使として蒲東で厳しい期限を課し、潞州平定に貢献。戸部侍郎判戸部事、中書侍郎同中書門下平章事。
  • 武宗崩御後、山陵使、門下侍郎兼戸部尚書、剣南西川節度使。李徳裕との親交から呉湘の獄の裁定に連座し湖南観察使に左遷、太子賓客、賀州刺史・撫州刺史を歴任し没。大中9年、湖南観察使を追贈、刑部尚書を贈られた。

【贊】

  • 賛にいう、周代の卿士(周・召・毛・原)は同姓国の出身であった。唐の宗室出身の宰相は9人。李林甫は奸諛で天下を危うくしかけ、李程は柔和なだけで治績に見るべきものが少なかったが、他は皆才によって職に称った賢宰相であった。秦・隋が親族を捨て賢者を侮って二世で滅んだのに対し、周・唐は親を親しみ賢を用いる道を得て長く国を保った。まことに盛んなことである。