史学理論の確立者
- 劉子玄、名は知幾、玄宗の諱を避け字で通用。幼くして『春秋左氏伝』に傾倒し博覧強記、進士及第、獲嘉主簿。
- 証聖初、上書して頻繁な大赦の弊害、功なき臣の濫進(「車載斗量」の諺)、刺史の任期制を建言するも武后には容れられなかった。酷吏の弾圧を憂い『思慎賦』を著し蘇味道・李嶠に「陸機『豪士賦』の流」と評された。徐堅・元行沖・呉兢らと親交。
- 鳳閣舎人兼修国史。中書令に至った宰相らが監修する体制の非効率を批判し、韋巨源・紀処訥・楊再思・宗楚客・蕭至忠に「五つの不可」を挙げて辞任を求めたが許されなかった(史局の構成、資料統制、機密漏洩、監修者の恣意、事務の停滞を列挙)。
- 『武后実録』の改訂を巡り武三思らに拒まれ、志が遂げられぬまま『史通』内外49篇を著し古今の史書を論評、徐堅に絶賛された。楊雄への4つの自己比較(好尚の変化、経の模作、著書の評価、若年の評価と晩年の評価の落差)を語り、感慨を述べた。
- 国史編纂は呉兢に委ね、自らは『劉氏家史』『譜考』を著し氏族の淵源を考証(居巣県への封を予言し的中)。太子左庶子として乗馬服制の礼制論を建言し定令となった。
- 開元初、左散騎常侍として『孝経』鄭氏学の真偽、『易』子夏伝の存廃などを論じたが、宋璟らに退けられた。子貺の獄に連座し安州別駕に左遷、享年61で没。国史を約30年司り、礼部尚書鄭惟忠に「史才は少ない」理由を問われ「才・学・識の三長を兼ね備える者が稀だから」と答えた「史才三長説」で名高い。工部尚書・謚文を追贈された。6子:貺・餗・匯・秩・迅・迥。
子玄の子・貺
- 字は恵卿。起居郎、右拾遺内供奉。『続説苑』10篇を著し劉向の遺漏を補った。『竹書紀年』の史料的価値を考証し『外伝』を著した。子は滋・浹。
貺の子・滋
- 字は公茂。経術に通じ、左補闕、河南尹李廙の下で功曹、司勲員外郎判南曹を歴任。興元元年、吏部侍郎知南選、戦乱後の混乱期に着任地で選考を行い評価された。貞元2年、左散騎常侍同中書門下平章事となるが施策なく廉抑に終始。吏部尚書として選考の不備を韋貞伯に弾劾され降階、贈陝州大都督・謚貞。
貺の子・浹
- 学識あり。子敦儒は母の狂疾を身を挺して世話した孝子として顕彰され、起居郎で祖風を継いだ。
子玄の子・餗
- 字は鼎卿。集賢院学士兼知史官、右補闕で終わる。父子三代で史官を務め『史例』を著した。
子玄の子・匯
- 左散騎常侍、荊南節度使で終わる。子贊は宣州刺史・都団練観察使として治世10年、無学だが剛猛な統治、厚敛で恩を結ぶも子弟の放縦もあり、贈吏部尚書・謚敬。
子玄の子・迥
- 剛直で知られ、江淮転運使の財賦運搬に尽力。吉州刺史として治績優秀、給事中に累進。
子玄の子・秩
- 字は祚卿。哥舒翰の潼関防衛の重要性を上言。至徳初、給事中、閬州刺史。『政典』『止戈記』『至徳新議』等を著した。
子玄の子・迅
- 字は捷卿。房琯・殷寅・劉晏に高く評価された。『詩』『書』『春秋』『礼』『楽』の続説を著したが世に示さなかった。