地方官としての実績
- 裴耀卿、字は煥之。寧州刺史裴守真の次子。幼くして文才、童子挙を経て秘書省正字・相王府典籤。相王即位後は国子主簿から長安令に累進、不当な配戸和市の弊害を是正した。
- 済州刺史として封禅巡幸の頓宿を差配し高評価。宋州での宴で玄宗が「人を重ねて労してはならない」との耀卿の上言を座右の銘としたと語ったという逸話がある。宣州刺史として堤防修復を主導、済州の民が功績碑を立てた。冀州を経て戸部侍郎。
漕運改革と宰相就任
- 開元20年、信安王祎の契丹討伐に副将として従い、賜物を先に分配し危険を回避。京兆尹として長安の飢饉対策と関中の食糧不足を憂い、東都行幸に合わせた漕運改革(3年分の食糧備蓄、陝州・洛陽間の陸運を水運に転換、河陰・集津・三門に倉を設置)を上奏した。
- 黄門侍郎同中書門下平章事・転運使に任命され、3年で700万石を集積、運搬費30万緡を削減。私利を求めない姿勢を貫き侍中に転任。
晩年
- 開元24年、尚書左丞相を罷免され趙城侯に封じられる。夷州刺史楊浚が贓罪で処刑されようとした際、刺史・県令への杖刑の禁止と、大暑を避けた死刑執行を上奏。
- 特進蓋嘉運の慢心(新立の功に驕り屯所への赴任を怠る)を諫めたが功なく終わる。天宝初、尚書左右僕射を歴任するが李林甫にその礼遇を奪われる(朝服の礼数の違いを巡るやりとり)。享年63で没、太子太傅を贈られ謚は文献。子綜は吏部郎中。
裴耀卿の孫・佶
- 字は弘正、幼くして文才。進士及第、藍田尉として徳宗の奉天城修築の際に代役を買って出た義が評判となる。李懐光討伐を建言、盧杞の饒州刺史起用に反対。同州刺史・中書舎人・尚書右丞・吏部侍郎等を歴任し没、吏部尚書・謚貞。鄭余慶と親交深く、佶の死に服喪した。
史論
- 賛にいう、開元の盛世に登用された補佐は皆賢才であり、張嘉貞・源乾曜らも職務に励み建言に見るべきものがあった。朝廷に君子が多く、太平の基盤であったと評される。張氏三代の宰相にはそれぞれ限界があり、嘉貞は俗に、延賞は嫉みに、弘靖は権勢に窮したと惜しまれる。