新唐書卷一百二十七 列傳第五十二 源乾曜

射礼をめぐる建言と京兆尹時代

  • 源乾曜、相州臨漳の人。祖父師民は隋の刑部侍郎、父直心は高宗の代の太常伯で嶺南に流され没した。神龍中、殿中侍御史として江東黜陟使を務め、諫議大夫に累進。景雲後、公卿百官の射礼が廃止されがちだったのに対し「射は邪正を分かち徳行を観るもの、廃すべきでない」と建言した。
  • 開元初、太常卿姜皎の推挙で梁州都督から召され邠王府長史、のち尚書左丞。四年、黄門侍郎同紫微黄門平章事となるが、姚崇と共に一月余りで罷免。

再任と公卿子弟の外任建言

  • 玄宗東幸中は京兆尹として留守を務め、寛簡な政治で人民を安んじた。宮中の白鷹を失った際、部下を庇い自ら過失を認めて上奏、帝はこれを不問とし人々はその引責の潔さに服した。
  • 開元8年、黄門侍郎同中書門下三品、のち侍中。大臣の子弟が京官に偏り地方官に赴かない弊害を指摘し、自らの子弼・潔を外任にすることを申し出た。これが以後の公卿子弟の外任慣例となった。
  • 玄宗と張説が同時に考課を受けたことを機に、中書・門下で実封戸300を共食する堂封の制度が始まった。
  • 東封の帰路、尚書左丞相兼侍中に。のち侍中を辞し太子少傅に転じ安陽郡公(祖の諱を避けて少師から改称)。老病のため東都行幸に随行できず没、幽州都督を贈られた。

源乾曜の人物評

  • 謹厳で40過ぎて初めて仕官し、清慎・恪敏で名を得た。宰相在任10年、張嘉貞・張説・李元紘・杜暹と共に秉政したが廷議での独自主張は控えめで、晩節は寛平を旨として署名するのみと評された。姜皎が張嘉貞に排斥された際、罪を得ても救わなかったことを君子は批判した。

源乾曜の族孫・光裕

  • 清廉と評判、諸弟に友愛。中書舎人として楊滔・劉令植と共に『開元新格』を刪定。尚書左丞を経て鄭州刺史として良吏とされ、在官のまま没した。

光裕の子・洧

  • 雍睦をもって家を保ち士友に推された。天宝中、給事中・襄州刺史。安禄山の乱で江陵大都督長史として防衛に当たり没、礼部尚書を贈られ謚は懿。