剛直な御史から尚書へ
- 蘇向、雍州藍田の人。明経科に及第、鄠尉。雍州長史李義琰の訴訟裁決を助け重んじられた。
- 垂拱初、監察御史。武后が韓王・魯王ら諸王を殺した際、密かに按訊させたが向は無実と推論、韓王らを助けたと讒言されるも武后は「卿は大雅の士、この獄に累なぞ及ばぬ」とかえって評価した。左肅政台御史大夫まで昇進。武后が白司馬阪に大仏像を建てる浪費を切諫し容れられた。
- 中宗が韋月将を斬ろうとした際、時令を理由に反対し忤旨、右台に転じたが再び右台大夫に復帰。節湣太子の乱の際は睿宗の連座を密かに弁護し多くを救った。戸部尚書、河内郡公。太子詹事致仕。享年81で没、兗州都督・謚文。
蘇向の子・晉
- 幼くして文才、『八卦論』を作り「後来の王粲」と称された。中宗の代に中書舎人となり、玄宗監国期の制命の多くを起草。泗州刺史から父の老いを理由に辞して奉養。父の没後戸部侍郎、吏部で宋璟と共に選考を担い、名声高く「門下点頭者更擬」の榜文を出し裴光庭に憎まれ汝州刺史に左遷。魏州刺史、太子左庶子で終わった。
- 友人張循之・仲之兄弟との交誼が篤く、仲之の子漸の面倒を見た。