新唐書卷一百二十六 列傳第五十一 張九齢

経歴と初期の上疏

  • 張九齢は字を子壽といい、韶州曲江の人。七歳で文章を作る才を示し、十三歳で書をもって広州刺史王方慶に自薦したところ、方慶は「この子は必ず遠大な功を成すだろう」と嘆じた。折しも張説が嶺南に左遷されており、九齢に一度会っただけで厚く遇した。父の喪では哀しみが深く庭の木が連理を結ぶほどであった。進士に及第し校書郎に任じられ、道侔伊呂科(伊尹・呂尚に匹敵する道徳の科)の策問で高第を得て左拾遺となった。玄宗が即位したばかりでまだ郊祀を行っていなかった際、九齢は建言した。
  • おおむね次のように述べた。天は百神の君であり、王者はこれに命を受ける。古来継統の主は必ず郊祀で天を配し、天命を敬い受けた徳に報いた。徳沢がまだ及んでいないとか穀物がまだ実っていないという理由でその礼を欠くことはなかった。昔、周公は后稷を郊祀に配して天を祀ったが、成王がまだ幼く周公が摂政していた時代でもこの礼を用いた、これは廃すべきでないことを明らかにするものだ。漢の丞相匡衡は「帝王の事で郊祀より重いものはない」と述べ、董仲舒もまた「郊祀をせずに山川を祭るのは祭祀の順序を失い礼に背く、それゆえ『春秋』はこれを非とする」と述べた。私はこの匡衡・董仲舒こそ古の礼を知る者だと思う、いずれも郊祀を最優先すべきとしたのだ。陛下は聖なる血統を継がれてすでに五年、まだ大報(郊祀)を行っておられない、経典に照らせば道理として通じないものがある。今、五穀は豊作で鳥獣も穏やかであり夷狄も内附し兵革もやみつつある、それなのに天に仕えることを怠るのは、教訓とすべきではないと恐れる。冬至の日に紫壇に登り採席を陳べ天位を定めれば、聖なる典礼に遺漏がなくなるだろう。
  • また次のようにも述べた。政治の乱れは水旱の災いとして現れる。天道は遠いようでいてその応答は極めて近い。昔、東海で孝婦が理不尽に処刑され長い旱魃が起きた。一吏の不明、一婦の非命でさえ天はその冤を明らかにする。まして六合万民の命は県令に、その生は刺史に委ねられている、陛下が共に治めておられる中でも特に人民に近い者たちなのだから、なおさらである。もし適材でなければ水旱の禍を招く、それは一人の婦人の例にとどまらない。今、刺史は京畿の名望ある郡ではまだ多少人選が慎重だが、江・淮・隴・蜀・三河の大府以外ではあまり適任者が選ばれていない。京官から出る者の中には自ら過失を抱えていたり政績が振るわなかったりする者を、牧守の職を用いて左遷の場としているものもある。あるいは付和雷同で高位に就いた者が、勢いが衰えるとふさわしくないと言われ地方の州に出される。武人や流外官が積み重ねた資歴だけで得ることもあり才を計っていない。刺史でさえこの有様なのだから、県令はなおさらだ。民衆こそ国家の根本であり、その根本を担う職が功名を求める者たちに軽んじられ、弊害を承け継いだ民が不肖の官吏に苦しめられている、聖なる教化はこうしてしだいに衰え、親しく民に接する人材を選ばないことから生じた弊害である。古は刺史から三公に入り、郎官から百里(県)に出て治めた。今の朝廷の士人は入ったら出ないもので、自らの計算からすればそれが有利だと考える。京師は衣冠の集まる地であり出世や名誉が容易に得られる場、これでは大きな利益が内にあって外にないことになる。智能の士がそれでも刺史や県令として出ようとするだろうか。国家がその智能者たちに頼って治まりながら、常に地方に適材が来ないのは、陛下が法をもって改めておられないからにほかならない。私が思うに、治世の根本は守令を重んじることに勝るものはない、守令が重んじられればこそ能ある者がその職を行える。宜しく資格を定め、都督・刺史を経ていない者はたとえ高第であっても侍郎・列卿に任じてはならず、県令を経ていない者はたとえ善政があっても台郎・給事中・中書舎人に任じてはならず、都督・守・令は遠方であっても十年以上外任にとどめないようにすべきだ。もしこれをせずに今の失を救おうとしても、天下はまだ治まらないだろう。
  • また次のようにも述べた。古の選士は稱職(職に相応しいこと)だけを重んじたため、士は日頃の行いを修め僥倖を求めず、奸偽が自ずと止まり流品も乱れなかった。今、天下は必ずしも上古より乱れているわけではないのに、事務は昔より倍増している、これは根本を正さずに末節に巧を弄しているからだ。いわゆる末節とは吏部の条文であり、その項目は千百に及ぶ。刀筆の吏は文書に溺れ、狡猾な小役人はその隙に乗じて利を得ている。私が思うに、簿書(記録帳簿)を初めて作った目的は忘却を防ぐためであったのに、今はかえって書類の精密さばかりを求め人材そのものを疎かにしている、これはいわゆる「剣を流れに落として舟に印をつける(時が経てば意味を失う愚)」に等しい。吏部で有能とされる者は「尉から主簿へ、主簿から丞へ」という順序をよく知っている者を指すが、これは文書上の官職順を知っているだけで、その人物の賢愚を問わないもので、これほど誤ったことがあろうか。吏部尚書・侍郎は賢者として選ばれた立場、人を知らないはずがない。もし人を知るのが難しいと言うなら、十人に八九人を選べればそれで良いはずだ。今、条文にがんじがらめになり資格に基づいて職を配分している、これでは官のために人を選んでいるのではなく人のために官を選んでいるようなものだ、これが「平配」の誹りを招き、官庁には賢を得た実りがない理由である。
  • 私が思うに、選部(選考制度)の弊は変化しないことにある。今もし刺史・県令が精密に人物を見極め、その管内で毎年選考すべき者を才行に基づいて評価し流品に入れられる者を台(尚書省)に送り、さらに選抜を加えれば、州県は推薦に慎重になり登用できる人材が増え、吏部はその成果を受け継ぐだけで済み、庸人が紛れ込む煩わしさがなくなる。今、毎年の選考は万を数えるほどだが、京師の米や物資はこれで消耗している、これほど多士がいるだろうか。多くは冒濫(不正な応募)によるものだ。詩一首・判文一つで是非を定めるようなやり方では、賢人が埋もれる結果を招く、これは明代の政治の欠陥である。天下がいくら広く朝廷にいくら人が多くとも、毀誉が乱れ聴受が不明であれば事は成らない。もし賢能を知りそれぞれに品第(等級)を与え、官の欠員が出るたびに順に用いれば良いのではないか。もし諸司の要職まで下等の者が紛れ込むようになれば、議論に高卑の別がなく、ただ得るか得ないかだけの争いになる。清議が立たず名節が修まらなくなる、善士は志を守るあまり時流に遅れ、凡人は求めるあまり操を失いやすくなる。朝廷が令名(良い評判)で人を進めれば、士もまた修めた名によって利を得るようになる、利の出所は衆が趨くところである。そうでなければ、小者は苟且の求めに陥り、一変して阿私(私利のための追従)に至り、大者は分義(正当な関係)を装いつつ再変して朋党に至るだろう。それゆえ人の登用にあたっては高下の序列を明確にすべきであり、高下に序列があれば妄りに求める者もいなくなる、天下の士は必ず刻意して身を修めるようになり、刑政も自ずと清くなる、これが興衰の大きな分かれ目である。
  • まもなく左補闕に遷った。九齢は自ら鑑識に優れており、吏部の抜萃試験や挙人の選考では常に右拾遺趙冬曦とともに評定を行い、その詳細で公平な判断が評判となった。司勲員外郎に改められた。この頃、張説が宰相であり九齢を特に重んじ系譜を通じて親交を結び、常に「後進の詞人の第一人者だ」と評した。中書舎人内供奉に遷り曲江男に封ぜられ、中書舎人に進んだ。帝が泰山を封じた際、説は両省の録事や主書、親しい摂官の多くを引き連れ登山させ、階級を飛び越えて五品に至らせた。九齢が詔の起草を担当することになった際、説に「官爵は天下の公器です、まず徳望を重んじ功労は後にすべきです。今、登封告成(封禅)は千載の絶典であり、清流(正統な官)はこの特別な恩恵から外れているのに、下級の胥吏がむやみに朱紫(高位の色)を身に着ければ、詔が出れば四方が失望するでしょう。まだ草案の段階です、改める余地があります、公はよくお考えください」と述べたが、説は「事はすでに決まった、世間の言葉など気にする必要はない」と答えた。案の定、後にこれが謗りを招いた。御史中丞宇文融が田法(土地制度)の事業を進める中で上奏があると説はそのたびに反対を建議した。融はこれに不満を積もらせ、九齢がこれを諫めたが説は聞かなかった。まもなく九齢も融らに痛烈に批判され危うく免れないところであったが、太常少卿に改められ冀州刺史に出された。母が郷里を離れたがらなかったため、洪州都督への転任を上表して求めた。桂州に転じ嶺南按察選補使を兼ねた。

宰相として

  • 説が集賢院を管掌していた頃、九齢を顧問に適した人物として推薦していた。説の没後、天子はその言葉を思い出し秘書少監・集賢院学士として召し知院事とした。渤海への詔書の起草にふさわしい人材がいなかったため九齢を召すと、詔を受けてただちに完成させた。工部侍郎知制誥に遷った。たびたび帰郷して母を養うことを願い出たが詔で許されなかった、代わりに弟の九臯・九章を嶺南刺史として季節ごとに駅を利用して家族に会えるよう計らった。中書侍郎に遷ったが母の喪で辞任し、哀しみのあまり体を損なう中、紫芝が座の傍らに生じ白鳩・白雀が家の樹に巣を作った。この年、喪の期間を短縮させて中書侍郎・同中書門下平章事を拝命した、固辞したが許されなかった。翌年、中書令に遷った。河南の水屯(水利田)の開発を議し河南稲田使を兼ねた。循資格(年功序列人事)の廃止と十道採訪使の復置を上言した。
  • 李林甫は学術がなく、九齢の文雅な才が帝に重んじられていることを内心妬んでいた。范陽節度使張守珪が可突干を斬った功で帝が侍中に任じようとした際、九齢は「宰相は天に代わって物を治めるもので、その人物あってこそ授けられるもの、功への賞与として与えるべきではありません。国家の衰亡は官の任用の乱れによるものです」と述べた。帝が「名目だけならどうか」と問うと、九齢は「名器(官位)は貸してはなりません、もし東北二虜(契丹・奚)を平定した際にはどう報いるおつもりですか」と答え、この件は止まった。また涼州都督牛仙客を尚書にしようとした際、九齢は「不可です。尚書とは古の納言(重要な諫官)にあたる官、唐家では旧宰相を多く用いてきました、それ以外なら内外の重職を歴任し徳望に優れた者に限られます。仙客は河・湟の一介の使に過ぎません、それを常伯(三公九卿級)の班に列すれば天下は何と言うでしょうか」と執論した。さらに帝が実封(食邑)を賜ろうとすると、九齢は「漢の法では功なくして封ずることはありません、唐も漢の法に従ったのが太宗の制度です。辺将が穀物や布帛を蓄え武具を整えるのはその職務にすぎません、陛下が必ず賞したいなら金帛でよいのです、土地を割いて封ずるべきではありません」と述べた。帝は怒って「仙客が寒門の出だからと嫌っているのか、卿はもとより門閥がある身だからそう言うのか」と述べた。九齢は頭を下げて「臣は荒陬(辺地)の孤生の身、陛下が過分に用いてくださったのは文学があったからです。仙客は胥吏から抜擢された者、書物さえ知りません。韓信は淮陰の一壮夫でしたが、絳侯・灌嬰の列に並ぶことを恥じました。陛下がどうしても仙客を用いられるなら、私はまことに恥じ入ります」と答えたが、帝は不快であった。翌日、林甫が進み出て「仙客は宰相の器です、尚書に堪えないはずがありましょうか。九齢は文吏で古の義に拘泥し大局を見誤っています」と述べ、帝はこれにより仙客の登用を疑わず決めた。
  • 九齢はすでに帝の意に逆らってしまい、内心恐れを抱いていた。帝が白羽扇を賜った際、九齢はこれを機に賦を献じて自らの立場を述べ、その末尾に「もしこの効用を得られる場があるなら、たとえ命を落としても厭いません」と記し、また「秋の気が移ろい奪おうとも、最後まで篋中(箱の中)にあることに感謝します」と結んだ。帝はこれに丁重な返事をしたが、結局尚書右丞相として政務から外され仙客が用いられた。これ以後、朝廷の士大夫は俸禄を保ち恩を養うことを専らにするようになった。かつて九齢は長安尉周子諒を監察御史に推薦していたが、子諒が仙客を弾劾した際に讖書(予言書)を引用したため、帝は怒って子諒を朝堂で杖打ちさせ流罪の途上で死なせた。九齢は不適切な人材を推薦した罪に問われ荊州長史に左遷された。直道によって黜けられたとはいえ九齢は不満を露わにすることなく文史をもって自ら楽しみ、朝廷の人々もその高潔な流儀を認めていた。しばらくして始興県伯に封ぜられ、墓参りのため帰郷を願い出て、病により没した。享年68歳。荊州大都督を追贈され諡は文献。

人柄と評価

  • 九齢は体が弱く、寄る辺があった(頼るべきものが必要であった)。旧来の慣習として公卿は帯に笏を挟んで馬に乗るものだったが、九齢だけは常に人にこれを持たせていたため、笏を入れる袋(笏囊)を考案した、これが九齢に始まる慣習である。以後、帝は人材登用のたびに「風度は九齢のようであるか」と問うようになったという。初め、千秋節(帝の誕生日)に公・王がこぞって宝鑑を献じた際、九齢は『事鑑』十章を献じ『千秋金鑑録』と号して諷諭の意を伝えた。厳挺之・袁仁敬・梁昇卿・盧怡と親交があり、世はその終始変わらぬ交わりを称えた。宰相として直言に憚りなく大臣の節を保った。当時、帝は在位が長くなり次第に政に倦んでいたため、九齢の議論は常に得失を極言し、その推薦した人物はみな正しい人物であった。武恵妃が太子瑛を陥れようと謀った際、九齢はこれを固く拒んだ。恵妃は密かに宦官の牛貴児を送り「廃立があれば必ず新たな立后がある、あなたが助力すれば宰相の地位を長く保てるだろう」と告げさせたが、九齢は「後宮の言葉が外に漏れるとはどういうことか」と一喝し、帝にその一件をすぐに奏上した。帝は色を動かしたが、これにより結局九齢が宰相であるうちは太子は無事であった。
  • 安禄山が初め范陽の偏校(下級将校)として入朝した際、その様子は驕り高ぶっていた。九齢は裴光庭に「幽州を乱すのはこの胡雛(胡人の子)だろう」と述べた。奚・契丹討伐で敗れた際、張守珪が禄山を捕らえて京師に連行すると、九齢はその処断の文書に「穰苴は出師にあたり荘賈を誅し、孫武は習戦にあたり宮嬪でさえ戮した、守珪の法が軍中で行われるからには禄山は死罪を免れられない」と記した。しかし帝はこれを許さず赦免した。九齢は「禄山は狼子野心、逆相(謀反の相)があります、ただちに誅すべきです、そうすれば後患を絶てます」と述べたが、帝は「卿は王衍が石勒を見抜いたという故事を持ち出して忠良を害してはならない」と答えた、九齢の言葉は結局用いられなかった。帝は後に蜀にあってその忠を思い涙を流し、使者を送って韶州で九齢を祭らせ、その家に厚く弔慰を送った。開元以後、天下は九齢を「曲江公」と称し名で呼ばなかったという。建中元年(780年)、徳宗はその風烈を賢とし、司徒を再び追贈した。
  • 子の張拯は父の喪に節行があり、のちに伊闕令となった。安禄山が河・洛を陥落させた際その地にいたが、賊の官職を受けなかった。乱の平定後、太子贊善大夫に抜擢された。九齢の弟の九臯もまた名を挙げ、嶺南節度使で終えた。その曾孫は仲方。

附伝 張九臯曾孫 仲方

  • 仲方は生まれつき優れた才を示し、父の友人高郢がこれを見て「この子は必ず国の器となる、私が地位を得たならば必ず取り立てよう」と評した。貞元中、進士・宏辞に及第し集賢校理となったが母の喪で辞任した。折しも高郢が御史大夫を拝すると表して仲方を御史に招いた。倉部員外郎に累遷した。
  • 呂温らが宰相李吉甫を不実な内容で弾劾した際、これに連座して左遷され、仲方も呂温の党とみなされ金州刺史に補された。宦官が民の田を奪った事件で、仲方は三度上疏して申し立て民の権利を守った。度支郎中に入った。李吉甫の没後、太常は「恭懿」の諡を、博士尉遲汾は「敬憲」の諡をそれぞれ議したが、仲方はかねての恨みが晴れないまま議を上げ「古の諡は大節を考え細行を略し善は善とし悪は悪とすべきで、一言で足りるものです。按ずるに吉甫は多才多芸ではありましたが、へつらいと媚びで容を取り台袞(宰相職)に累進し、信が薄く謀りごとも多く、何ら成功を挙げませんでした。しかも兵は不吉の器であり我から始めるべきものではないのに、罪を討つと称して功を必ず成すことを求めました。今、内には輔臣(宦官)の盗みがあり外には毒蠆(悪臣)を懐く臣がおり、軍が野に暴露され農民は畑仕事もできず婦人は桑仕事もできず、賦税は使い尽くされ蓄えも尽き、屍が転がり血が流れ骨が山をなしています、その毒禍の痛みは天に訴えても報われません、この階梯は実に吉甫に始まります」と述べた。さらに「吉甫は平易柔和で名声が行いに見合っていません、蔡州平定を待ってから議論すべきです」と述べた。憲宗は用兵中であり、その言葉の醜く激しいことを嫌い遂州司馬に左遷した。しだいに河南少尹・鄭州刺史に進んだ。
  • 敬宗の即位後、李程が輔政するとその引き立てで諫議大夫となった。帝が王播に競渡(ボートレース)用の舟三十艘を造らせる詔を出した際、その費用は半年分の運費に相当した。仲方は延英殿で堅苦しいまでに諫争し、帝は三分の二を減らした。また帝が華清宮に行幸しようとした際、仲方は「万乗の行幸には必ず護衛が伴います、簡略にすれば威重を失います」と諫めたが従われず、それでも慰労を受けた。鄠令崔発が宦官を辱めて獄に繋がれ恩赦にも遇されなかった事件で、仲方は「恩は天下に及び昆虫にまで流れるのに、御前だけで行われないのはなぜですか」と述べ、発は死罪を免れた。大和初年、福建観察使として出された。召し戻され左散騎常侍に至った。李徳裕が国政を執ると太子賓客として東都に分司した。徳裕が罷免されると再び常侍を拝した。
  • 李訓の変で大臣が誅殺されあるいは連座した際、翌日、群臣が宣政殿に参内しようとしたが門が開かなかった。群臣は朝堂に錯立し秩序を司る官もいなかったが、しばらくして門が半分開き、使者が仲方を召し「詔がある、京兆尹を拝せよ」と告げた。門が開いてから号令が発せられた。時に将相の一族が誅され首と足が路上に散乱していたが、仲方は密かに人を使ってその屍を識別させ、その後の埋葬を許すよう取り計らったため遺骸が乱れることはなかった。まもなく禁軍が横暴になり政治を乱すことが増え、仲方は勢力が弱く弾劾できなかった。宰相鄭覃は薛元賞に代えて仲方を華州刺史に出した。召し戻されて秘書監を授けられた。人々は鄭覃が李徳裕を助けて仲方を退けたと噂した。覃はさらに丞・郎の候補として仲方を上げたが、文宗は「侍郎は朝廷の華選(重要な地位)だ、あの地方官では及ばない」と述べ、ただ曲江県伯に封じるにとどめた。没した、享年72歳、礼部尚書を追贈され諡は成。仲方は確固として節操があり、李吉甫の諡に反論したことで世に正しさを認められなかったが、結局顕職には至らなかった。没した後、多くの人がこれを惜しんだ。
  • 以前、高祖が隋に仕えていた頃、太宗はまだ幼く病んでいたため熒陽の仏祠で玉像を刻んで長寿を祈らせたが、久しく朽ちて崩れていた。仲方が鄭州にいた頃、吏に修復を命じ石に刻んで報告し、その話が世に伝わった。