経歴
- 韓思復は字を紹出といい、京兆長安の人。祖父の韓倫は貞観中に左衛率を歴任し長山県男に封ぜられた。思復は幼くして父を失い、十歳のとき母が父の死の様子を語ると咽び泣いて息も絶え絶えになった、これに倫は特に彼を愛し「この子は必ず我が宗族を大きくするだろう」と言った。家は裕福であったが金玉・車馬・玩好には目もくれず、学問に篤く秀才に高第で挙げられ祖父の封を襲った。永淳中、家が貧しくなり飢饉の年、京兆の杜瑾が百綾を思復に贈ったが、思復は日々の食にも事欠く中それを開封せず保存した。
- 梁府倉曹参軍に任じられ大旱の年、独断で倉を開いて民を救済し、州から責められると「人は窮すれば乱れる、活かしてやるほうが盗賊になるより良い」と答え、州は屈した。汴州司戸に転じ仁恕の政を行い鞭罰を用いなかった。親の喪で辞官し薪を売って生計を立てた。夏官侍郎の姚崇がこれを知り司礼博士に抜擢した。礼部郎中に五遷。建昌王武攸寧が母の葬儀に鼓吹を求めた際、思復は不可として止めさせた。王同皎に推薦されたことに連座して始州長史に左遷、滁州刺史に遷った。州には銅の官営鉱山があり人々は苦しんでいたが、思復は他の商人に代わりに買わせる方法をとり費用を省き利益を増した。黄芝五本が州署に生じ、民はその瑞祥を頌える碑を刻んだ。襄州に転じた。
- 給事中に入り、帝が景龍観を造営した際、思復は「災難が収まったばかりなのに土木事業を興すのは人民を憂える急務ではない」と諫めたが聞かれなかった。厳善思が譙王重福の事件に連座して詔獄に送られると、有司は「善思は汝州刺史として王と交わり、京師に来ても謀を暴露せず東都の兵気を奏上しただけだった、反を匿し上を欺いた、誅すべきだ」と弾劾した。思復は「以前韋氏が内権を握って社稷を危うくしたとき、善思は相府に至り陛下が必ず即位すると告げた。今召される善思の書状はすぐ届いており、逆節ある者がこれほど急いで命に従うだろうか。百官の議論を集めるべきだ」と述べ、議論の多くが同調して善思は死を免れ静州に流された。中書舎人に遷り、たびたび得失を指摘してよく採用された。
- 開元初年、諫議大夫となった。山東で大蝗害が起き、宰相姚崇が使者を分遣して駆除・埋却させたとき、思復は「蝗の飛来した苗は尽く食い荒らされ、今や洛陽まで流民が及んでいる。使者の往来も声を大にできない状況で、天災を尽く埋め殺すことなどできない。陛下は過ちを悔い緊急でない務めを減らし、至公の人材を任用してこの誠実さで天の譴めに答えるべきだ、駆蝗使は一切罷めるべきだ」と上言した。玄宗はこれを是とし、その上疏を姚崇に付し、崇は思復に山東の被害を調べさせた。戻って実情を報告したが、崇はさらに監察御史劉沼に再調査させ、沼は宰相の意向に沿って旧牒をすべて書き換えて報告したため、河南数州の賦税は減免されなかった。崇はこれを憎み思復を徳州刺史に出した。黄門侍郎を拝命。帝の北巡に従い行在巡問賑給大使となった。御史大夫に遷ったが淡泊な性質で監察を好まず、太子賓客に転じ爵は伯に進んだ。吏部侍郎に累遷し、再び襄州刺史となり治績は天下に名高く、召還されても再び太子賓客を拝した。74歳で没し諡は文。天子自ら「有唐忠孝韓長山之墓」と碑に題した。旧吏の盧僎、邑人の孟浩然が峴山に石碑を立てた。
- 以前、鄭仁傑・李無為という隠者が太白山に隠棲しており、思復は若い頃この二人に従って遊学し、「あなたは識見清く古風であるが、宰相になれなかったのは残念だ」と評されたという。子は朝宗。
附伝 韓思復子 朝宗
- 朝宗は初め左拾遺を歴任した。睿宗が乞寒胡戯を行わせようとした際「昔、辛有が伊川を過ぎ髪をほどいて祭る者を見て、必ず戎狄化すると知った。今の乞寒胡戯は古礼になく非法である。皇太子が微服でこれを見物するという噂もある。匈奴が近くにいて刺客が突如出れば大憂であり、白龍が魚に化けるような軽率な行いは深く畏れるべきだ。しかも天象に異変が現れ疫病が続く今、兵を厭い陰を助けるこの行為は無益である」と諫め、帝はこれを称え特に中上考を賜った。帝が皇太子(玄宗)に位を伝えようとした際も朝宗は将軍龐承宗とともに「太子は聡明ですが、しばらく徳を養わせるべきです」と諫めたが聞かれなかった。荊州長史に累遷した。
- 開元二十二年(734年)、初めて十道採訪使が置かれると、朝宗は襄州刺史として山南東道を兼ねた。襄州の南楚故城には昭王井があり、水を汲む者は死ぬと言い伝えられ暍死しそうな旅人も汲もうとしなかったが、朝宗は書を神に諭し以後は汲む者に恙がなくなり、人々は「韓公井」と呼んだ。任用した吏が擅に賦役を課したことに連座して洪州刺史に左遷された。天宝初年、京兆尹に召され、渭水を金光門に引き入れ潭を作って西市の材木輸送を通した。高平太守に出た。開元末年、天下無事な中に兵乱の噂が広まり、官人が密かに世を避ける計を立てる中、朝宗は終南山に廬したが、長安尉霍仙奇に密告され玄宗が怒り侍御史王訊に取り調べさせた。呉興別駕に左遷され没した。朝宗は後進の抜擢を好み、崔宗之・厳武を朝廷に推薦し、当時の士人はこれを重んじた。
附伝 韓朝宗孫 佽
- 朝宗の孫の佽は字を相之といい、清廉簡素な性格であった。元和初年、進士に及第。山南東道使府から殿中侍御史に入った。桂管観察使に累遷し二十余州を統轄、参軍から県令まで約三百員のうち吏部が補したのはわずか十分の一で残りは観察使が才によって補職した。佽が着任すると皆謁見を求め、一吏が名簿を持って欠員補充を求めたところ、佽は「治績のある者は交代させない、法を守らない者には情けをかけない、欠員は名簿に基づき任用可能な者を選べ」と告げた。ちょうど春服使が来た際、郷の豪猾が使者に多く賄賂を贈って県令職を求め、使者が佽に頼むと許可した。使者が去ると郷豪を召し法を曲げた罪で背を鞭打ち、部内に布告したため、豪族は畏れ入った。時に五管に監兵を置く詔が出たが、境内の税収では費用を賄えず、佽は倹約して定制とし、皆その手腕を難事とした。没後、工部侍郎を追贈された。