経歴と上疏
- 宋務光は字を子昂、一名を烈といい、汾州西河の人。進士に及第し洛陽尉を授けられ、右衛騎曹参軍に遷った。神龍元年(705年)、大水害の際、文武九品以上の官に直言極諫を求める詔が出ると、務光は上書した。
- おおむね次のように述べた。君主が過ちを聞き入れれば興らないことはなく、諫言を拒めば乱れないことはない。夏以来水害が続くのは天変であり、祭祀の廃れが原因である。陛下は即位以来、郊祀・宗廟・山川の祭祀を時に行っていない。また牛の疫病は「思之不睿」の兆しであり、万機の事を陛下が親裁していないことの表れではないか。後宮の近習が外政に干渉することを憂うべきである。太子の地位を早く定めるべきで、武三思のような姻戚に機要を任すべきでない。秘書監鄭普思・国子祭酒葉静能は小道浅術で朝廷を汚しており、遠ざけるべきである。
- 疏は聞き入れられなかった。監察御史として河南道を巡察した際、滑州は丁の輸入が少ないのに封戸が多く、封人への配分のたびに亡命者が出ていた。務光は「通邑大都は封じるべきでない、七県のうち五県が分封され、王の賦は侯の租より少ない状況だ、封戸を余州へ均等に分けるべきだ」と建言し、また「封賦は歳末にまとめて送り、封使を廃止し伝駅の労を省くべきだ」と求めたが採用されなかった。考課で最上位となり殿中侍御史に進み、右台に遷った。汝州参軍事李欽憲を推薦し、のちに名臣となった。42歳で没した。
附伝 呂元泰
- 当時、清源尉の呂元泰も時政を論じ「国家は至公の神器、一度正せば傾きにくく一度傾けば正しにくい。今は中興政化の幾微の時期、慎むべきである。近頃寺塔を営み僧尼を得度させ布施が絶えないのは急務ではない。林胡の反乱・獯虜の内侵で帑蔵は空しく戸口は流散している。天下の人が失業しているのに太平とは言えず、辺兵が解けないのに無事とは言えず、水旱の災いがあるのに豊作とは言えず、倉廩が満ちないのに国富とは言えない。それなのに飢凍した人民を役使して木石を刻み不急の工事に労費を重ねるのは中興の要ではない。近頃、坊邑で『渾脱隊』と称し駿馬胡服で列をなし『蘇莫遮』と呼ぶ行事が流行しているが、これは軍陣を模し戦争を象り、錦繍を競い女工を害し、胡服で歓ぶことは雅楽ではない。礼義の朝廷が胡虜の風俗に倣うべきではない」と上書したが返答はなかった。