新唐書卷一百十八 列傳第四十三 韋湊

韋湊は字を彦宗といい、京兆万年の人。祖父叔諧の代に一族三兄弟が同省に勤め「三列宿」と称された家系の出。地方官・監察官を歴任し、仏事造営や陵墓の碑建立など不要不急の土木事業をたびたび諫めて中止させた実務派官僚。65歳で没し、幽州都督を追贈され諡は文。子は見素。

年表(3件)

経歴と諫言

  • 韋湊は字を彦宗といい、京兆万年の人。祖父の韋叔諧は貞観中に庫部郎中となり、弟の吏部郎中叔謙、兄の主爵郎中季武と同じ省に勤め「三列宿」と称された。
  • 湊は永淳初年、婺州参軍事として出仕し、資州司兵に転じた。観察使房昶が才を認めて朝廷に推薦し、揚州法曹に遷った。仁寿県令を罷めた孟神爽が豪縦で法を犯し貴戚と結んでいたが、湊が取り調べて杖殺し、遠近の者が服した。相王府属となり、姚崇が府長史を兼ねていたとき「韋子は識見が深く文に詳しい、遅く出会ったのが残念だ」と評した。司農少卿に六遷したが、宗楚客の意に逆らい貝州刺史に左遷された。
  • 睿宗の即位後、鴻臚少卿を拝命、太府に転じ通事舎人を兼ねた。改葬された故太子重俊に諡を加える詔、李多祚らの罪を雪ぐ議論があった際、湊は「王者の号令は大道に則り、賞罰の及ばないところは行いをもとに諡を立てて褒貶する。太子は北軍を擁して宮中を犯し、和帝(中宗)が玄武門で直接逆順を諭したにもかかわらず馬を降りず攻撃を続けた。翌日帝は群臣に涙を流して『あわや相見えられなくなるところだった』と述べた、危機は甚だしかった。武三思父子を斬った点は嘉すべきだが、自立を図った点は逆である。太子に『節愍』と諡するのは道理に合わない、諡を改めるべきで、多祚らの罪も『免ず』であって『雪ぐ』ではない」と上言した。帝は驚いて労い「まさに卿の言う通りだ、すでにそうなっている、どうしようか」と問うと、湊は「太子は実際に逆であり褒めることはできない、質すべきだ」と答え、大臣も改諡に慎重で、多祚らの贈官だけが罷められた。
  • 景雲初年、金仙観などの造営が始まると湊は「農繁期に工事を興せば公主の私財とはいえ人夫を高値で雇うため農民が耕作を捨て雇役に流れ、天下に飢える者が出る」と諫めたが聞かれず、なお「万物は生育の時期であり草木昆虫を多く傷つけるのは仁聖の本意でない」と争った。帝が外朝に諮ると中書令崔湜・侍中岑羲は「あなたはそれで良いと思うのか」と問い、湊は「厚禄を食む身、死をも恐れない、まして聖世に死ぬことなどあろうか」と答え、朝廷は費用を大幅に削減した。陝・汝・岐三州刺史に出た。
  • 開元初年、靖陵に碑を建てようとしたとき、湊は古の園陵に碑を建てない慣例と旱魃の折の工事の不適切さを諫めて中止させた。将作大匠に遷り、孝敬皇帝の廟号を義宗に復す詔が出た際、湊は「『必ずや名を正す』という言葉がある。祖には功、宗には徳があってこそ廟は不毀とされる。歴代で宗と称されるのは天下を治め徳沢が及んだ者のみ。孝敬皇帝は南面したことがなく別に寝廟が立てられている、宗と称する道理がない」と諫めて中止させた。
  • 右衛大将軍に遷り、玄宗は「先例では諸衛大将軍は尚書と交替で任じるものだが、近年は軽視されているので卿を用いて重んじる、辞退するな」と述べた。まもなく河南尹に転じ彭城郡公に封ぜられた。洛陽の主簿王鈞が賄賂で死罪に問われた際、詔で両台御史・河南尹の吏の不正を責め、湊は曹州刺史に、侍御史張洽は通州司馬に出された。のち太原尹・北都軍器監を兼ね、辺境の防備を整えたことで慰労の詔を賜った。病になると上医が派遣されたが、65歳で没し、幽州都督を追贈され諡は文。子は見素。

附伝 韋湊子 見素

  • 見素は字を会微といい、性質は仁厚であった。進士に及第し相王府参軍を授けられ、父の爵を襲い諫議大夫に昇った。天宝五載(746年)、江西・山南・黔中・嶺南道黜陟使として吏治を糾し、至る所で恐れられた。文部侍郎に遷り、口頭で判文を暗誦するほどで銓叙は公平、官の求めに応じてよく聞き入れたため人々に徳とされた。
  • 天宝十三載(754年)、玄宗が長雨に苦しみ六十日にも及んだため宰相を非とし左相陳希烈を罷免、楊国忠に大臣を審査させた。吉温が寵愛を得ていて帝が用いようとしたが、国忠は吉温が安禄山に厚遇されていたため自らの進退を恐れ阻止した。中書舎人竇華・宋昱と謀り、見素が安雅で御しやすいとして国忠が帝に推薦し、帝もかつての旧恩から武部尚書・同中書門下平章事・集賢院学士・知門下省事を拝命させた。
  • 翌年、安禄山が蕃将三十二人を漢将に代えることを求め帝が許可すると、見素は不満を示し国忠に「禄山の反状は天下に明らかなのに蕃将を漢将に代えれば戦乱が起きよう」と述べたが国忠は応じなかった。見素は「禍の兆しを防げず、禍の形が見えても制御できないなら宰相は何のためにいるのか、明日必ず懇論しよう」と述べた。帝の前に出ると帝は「卿らは禄山を疑っているのか」と迎え、国忠・見素は跪いて涙とともに禄山の反状を陳述し、帝は詔を再考すると見せて禄山の上表を前に置いてから退出させた。帝は中官袁思芸に「しばらく我慢せよ、朕がじっくり考える」と伝えさせた。以後、見素は帝の前で何度も禄山について進言したが取り上げられなかった。まもなく禄山が反乱を起こし、帝に従い蜀へ入った。陳玄礼が楊国忠を殺したとき、見素も兵に頭を傷つけられたが、群衆は「韋公父子を害するな」と声を上げ助かった。帝は壽王に薬を持たせ治療させた。巴西で左相を兼ね、豳国公に封ぜられた。
  • 粛宗の即位後、房琯・崔渙とともに伝国璽と冊を奉じ制命を宣揚した。帝(玄宗)は「太子は仁孝で天宝十三載にはすでに譲位の意があったが水旱のため様子を見るよう勧められていた。今皇帝が即位を受けたので朕は重荷を下ろせた。卿らは遠路を厭わずよく輔導してほしい」と述べ、見素は涙ながらに拝辞した。また子の見素の子・韋諤と中書舎人賈至を冊使判官に任じ、粛宗に順化郡で謁見させた。粛宗は房琯の名声を旧知として厚遇し、見素はかつて国忠に近かったことから礼遇は劣った。
  • その年十月丙申、星が昴を犯すと、見素は帝に「昴は胡を象徴する星、天道の兆しは人に応じる、安禄山はまもなく死ぬだろう」と述べた。帝が時期を問うと、見素は五行説に基づき「昴は金気で火を忌み、火の位に入る昴の中天がその時である。死ぬ月も日も定まっている、来年正月申寅の日に禄山は死ぬだろう」と答えた。禄山の死は実際にこの通りとなった。
  • 翌年三月、鳳翔に至り尚書右僕射を拝したが政務からは外れた。行在所では戦乱後の吏員の簿籍が煬散し、人心を集めるため無検証で補官していたが、見素は制度整備を求めたものの帝は聞かなかった。長安に戻ると選者が殺到し補署の場がなく、見素の建言がようやく実行された。郭子儀も僕射となったため見素は太子太師に転じ、蜀郡へ太上皇を迎える詔を受けた。功により実封三百戸を賜った。上元初年、病により致仕を求め許され、朔望に参内するよう詔された。宝応元年(762年)、76歳で没し、司徒を追贈され、諡は忠貞。子は諤。

史論

  • 賛にいう。楊国忠はもともと安禄山と寵を争っていたため、吉温を捕らえて反乱を挑発する一方、密かに蜀の資材を蓄え、天子の出御に備えた。見素は国忠とともに涙を流して禄山の反状を訴え、その言を信じられればなお権勢を長らえようとした。見素は禄山の反乱を予言できたが、その理由までは説けなかった、これは国忠を助けて王室を敗らせた行いである。玄宗はこれを悟らず宰相の地位に留めた。ついに後帝(粛宗)に軽んじられたが、それでも要職を全うできたのは幸運というべきである。見素を先見の明ありとするのは誤りである。

附伝 韋見素子 諤

  • 諤は京兆府司録参軍を歴任した。楊国忠が殺された後も軍の動揺が収まらず、陳玄礼が楊貴妃を殺して衆を安んじようと請うたが帝が躊躇していたところ、諤は「計を色より勝らせる者は栄え、色を計より勝らせる者は滅ぶと聞く。今宗廟が震動し陛下が神器を捨てて草莽に奔るなら、恩を割いて社稷を安んじるほかない」と諫め、叩頭して血を流した。帝が悟り貴妃に死を賜ると軍は大いに喜んだ。諤は御史中丞に抜擢され置頓使となった。行幸先を巡る議論が紛糾する中、諤は「今は兵が少なく賊を防げない、還京は万全でない、扶風に行き様子を見るべきだ」と述べ、帝もこれに同意して扶風に至り、そこで西幸(蜀行き)を決めた。のち給事中で終えた。

附伝 韋諤従子 顗

  • 顗は字を周仁といい、諤の弟益之の子。幼くして孤児となり姉に仕えて恭順であった。成人しても絹を着なかった。陰陽象緯に通じ山川風俗に博識で、議論は根拠のあるものだった。門蔭で千牛備身に補され、鄠尉の判官として登用され万年尉を授けられた。御史・補闕を歴任し、李約・李正辞とともに諷諫を進め、多くの大事を動かした。裴垍・韋貫之・李絳・崔群・蕭俛はいずれも布衣時代からの旧友でのちに宰相となり、朝廷の典章について相談されると「我ら五人の中で私の知恵は韋公一人に及ばない」と語ったという。長慶初年、大理少卿となり給事中に累遷した。敬宗の即位後、御史中丞を授けられ戸部侍郎、さらに吏部に転じた。没後、礼部尚書を追贈された。
  • 著書に『易縕解』があり、終始一貫した深い理を推し進めている。士人との交流を好み、後進は皆その門を訪ねた。李逢吉が党を結んで国政を専らにした際、これに付和したため世論の評価は衰えたが、節倹に徹する姿勢は天下に評価された。

附伝 韋見素従子 知人

  • 見素の従兄弟の子、知人は字を行哲といい、叔謙の子。若くして学を好んだ。国子監の推薦で校書郎を授けられた。高宗の時、州参軍から中台郎に抜擢された八人の一人として荊府兵曹から司庫員外郎に遷り、司戎大夫事を判じたが間もなく没した。子は維・繩。

附伝 知人子 維

  • 維は字を文紀といい、進士対策で高第、武功主簿に抜擢された。乾陵の造営を督し、飢饉の年に人夫の負担を均等にし労苦をかけなかった。徐敬業の親族であることに連座して五泉主簿に左遷された。内江令に転じ農桑を教え、県は頌徳の碑を刻んだ。戸部郎中に遷り裁断に優れ、当時員外郎であった詩人宋之問と並んで「戸部二妙」と称された。太子右庶子で終えた。

附伝 知人子 繩

  • 繩は文才があり、幼い宗族の孤児を分け隔てなく養育した。孝廉に挙げられたが母が老いていることを理由に仕えず、二十年余り経て長安尉となり、威は京師に行われた。監察御史に抜擢され、泗・涇・鄜三州刺史を歴任した。天宝初年、秘書少監に入り、玄宗は文事を重んじたためその職を尚書丞・郎に準じて扱った。繩は書物の整理に功があり善職と称された。陳王傅で終えた。

附伝 知人孫 虚心

  • 虚心は字を無逸といい、維の子。孝廉に挙げられ、大理丞・侍御史に遷った。神龍年間、大獄を糾すにあたり僕射竇懐貞・侍中劉幽求が軽重をつけようとしたが、虚心は正しく据えて曲げなかった。景龍年間、羌族の叛乱を鎮圧した後、全員誅殺の詔が出たが虚心は酋長のみを死罪とし残りは助命した。御史中丞に遷り、荊・潞・揚の三大都督府長史を歴任。荊州で郷豪が権勢を頼んで法を犯した際、その財産を没収した。廬江に盗賊が多かったため舒城県を設置し盗賊は衰えた。工部尚書・東京留守に召され、南皮郡子に累封され没し、揚州大都督を追贈され諡は正。弟の虚舟は洪・魏二州刺史を歴任し治績を残し、刑部侍郎に入った。
  • 以前、維が郎官であったとき庭に柳を植え、虚心兄弟が郎省に勤めた際、その柳に対して敬意を表した。叔謙以後、郎中に至る者が数人おり、世に「郎官家」と呼ばれた。