王羲之書帖の献上と礼学
- 丹陽より雍州咸陽に移った家系。父弘直は漢王元昌の放蕩を諫めた友。方慶自身は司馬遷・班固の史書を学び、広州都督として南海貿易の不正(前任者の搾取)を正し「治広第一」と称された。
- 鸞台侍郎同鳳閣鸞台平章事として、契丹討伐凱旋時の鼓吹演奏の可否(忌月に関する議論)を的確に判断し、武后の玉泉祠行幸での危険な山道の腰輿使用を諫めて中止させた。
- 王羲之の書帖(自身は十世の子孫)四十余巻のうち残る一軸と、王導・王洽ら祖先28人の書十篇を武后に献上し、『宝章集』として顕彰された。
- 講武の時期(孟春は五行説で不適切)についての詳細な議論を行い、東宮の避諱(太子の名を避ける慣習)の整備も進言。長安二(702年)年没、兗州都督・諡貞を贈られた。博学で『三礼』に精通し、蔵書は秘府に劣らなかったという。
綝孫 俌
- 孫の俌(字霊亀)は范陽節度使張守珪の幕下で契丹の反乱を交渉で防ぎ、安禄山の乱では博陵・常山二太守として河北招討に功があった。
俌孫 遂
- 俌の孫遂は西北供軍使などを歴任するが性格が偏狭で、部下を「反残賊」と罵ったことから裨将王弁の反乱を招き、殺害された。
綝九世孫 摶
- 九世孫の摶(字昭逸)は戸部侍郎から同中書門下平章事に至るが、崔胤・朱全忠の政争に巻き込まれ、光化三(900年)年、崖州司戸参軍に貶され藍田駅で賜死された。