新唐書卷一百十六 列傳第四十一 韋思謙

厳正な御史

  • 雍州杜陵より鄭州陽武に移った家系。8歳で母を喪い孝で知られた。「御史は山岳を動かし州県を震わせるほどでなければ職責を果たしたと言えない」との信念で知られ、中書令褚遂良の不正な土地取引を弾劾し左遷させた。
  • 高宗に重用され、武候将軍田仁会の誣告事件で御史張仁禕を弁護した。御史大夫として王公にも礼を屈しない厳格さ(「耳目の官は独立を保つべき」)を貫いた。垂拱初、同鳳閣鸞台三品。子承慶・嗣立。

思謙子 承慶

  • 承慶(字延休)は継母への孝行で知られ、太子(李賢)の遊興を諫める上疏や『諭善箴』を進言。明堂火災に際し「執政者が短命で交代する現状は文明・垂拱以来の悪習」と諫言した。三度銓選(吏部の選挙)を掌り公正と評された。長安中、鳳閣侍郎同鳳閣鸞台平章事。張易之誅殺後、赦令の起草を担い賞賛されたが嶺表に流された。黄門侍郎で没し諡は温。

思謙子 嗣立

  • 嗣立(字延構)は兄承慶と異母兄弟だが友愛が篤く、母の偏愛にも解衣代罰を申し出て母を感動させた逸話が伝わる(晋の王覧に比される)。学校制度の再興、酷吏の獄による冤罪の大赦を求める上疏を行った。
  • 長安中、鳳閣侍郎同鳳閣鸞台平章事として地方官の質低下を問題視し、自ら汴州刺史に出て範を示した。中宗景龍中、兵部尚書同中書門下三品として、寺観の濫造・食封の家(皇族への過大な封戸)による国家財政の圧迫を上疏、丁課の一元化と刺史・県令選抜の厳格化を求めたが容れられなかった。
  • 韋后との縁で優遇されるが、韋后敗死後は寧王に救われて許州刺史。開元中、66歳で没し兵部尚書・諡孝を贈られた。父子二代で宰相となる例は稀有と評された。

嗣立子 恒

  • 嗣立の子恒は碭山令として寛政で慕われ、隴右・河西黜陟使として節度使蓋嘉運の不法を弾劾した。

嗣立子 濟

  • 嗣立の子済は鄄城令として県令の治績評価で首位となり、戸部侍郎・太原尹を歴任、『先徳詩』四章を著した。

嗣立孫 弘景

  • 嗣立の孫弘景は翰林学士から吏部侍郎として厳正な銓選を行い、駙馬都尉劉士涇の不当な昇進に還詔を上奏する剛直さを示した。禮部尚書・東都留守で66歳で没した。