新唐書卷一百十五 列傳第四十 朱敬則

酷吏政治の終焉を説く

  • 亳州永城の人。孝義の家柄で知られ、江融・魏元忠と交友した。咸亨中、高宗に召見されるが中書令李敬玄に讒言され洹水尉に左遷。
  • 武后の告密・羅織の政治が続く中、上疏して「秦は厳法で天下を得たが寛政に転じられず滅んだ。漢の陸賈・叔孫通は乱世の策から治世の礼楽への転換を成功させた」と論じ、酷吏政治の転換を強く求めた。「羅織の妄源を塞ぎ、朋党の険跡を掃え」との一節で知られる。
  • 正諫大夫・修国史として、史官の権威(「史官は生死を制す、宰相以上に畏るべし」との韋安石の評)を高めた。魏元忠・張説が張易之に構陥された際、「殺せば天下の望みを失う」と弁護し救った。
  • 鄭州刺史で致仕。裴懷古を桂州都督に推挙するなど人材登用に努め、二張(易之・昌宗)誅殺の策を敬暉に授けた功労者でもある。封建論への反論(周制の郡国復活は時代に合わないとする論)でも知られる。睿宗即位後、劉幽求の証言により秘書監・諡元を追贈された。

仁軌

  • 敬則の兄仁軌(字德容)は隠居して親を養い「終身譲路、終身譲畔」の家訓で知られ、没後に「孝友先生」と諡された。

史論

  • 贊に曰く、武后が唐の中衰に乗じて権柄を握り天下を奪った中で、狄仁傑は恥を忍び忠を尽くし、権謀を用いて張柬之らを引き立て、ついに唐室を復興させた功は他に類がないと評した(唐の呂温の頌「日を虞淵に取り、光を咸池に洗う」)。郝処俊が高宗の譲位を諫止した節義、朱敬則の一諫による羅織の獄の終息も、時宜を得た発言として称えられた。