新唐書卷一百十五 列傳第四十 郝處俊

高宗への譲位反対

  • 安州安陸の人。父相貴は隋末の動乱を経て滁州刺史。10歳で孤児となるが学を好み『漢書』を暗誦した。進士及第後、太宗の高麗討伐で李勣の副として遠征、危機に際し落ち着いて精鋭を用いた冷静さで知られる。
  • 東台侍郎として、僧盧伽逸多の丹薬(不老長寿の薬)を服用しようとする高宗を「先帝も同様の薬で崩御した」と諫めて止めさせた。
  • 咸亨初、高宗の東都行幸で太子監国に唯一従い、「秦の法は厳しすぎたのではなく、法が急であったため官が動けなかった」という論(曹操の故事を引用)を展開し高宗に称賛された。
  • 国史編纂の実態を正すため、太宗が自ら罪を減じた逸話を提供し、より正確な史書編纂を求めた。翔鸞閣での酺宴で二王(雍王賢・周王顕)に競争させる企画を「童子に誑りを教える」として制止した。中書令・兼太子賓客・検校兵部尚書。
  • 高宗が武后への譲位(禅位)を検討した際、「天子は陽道、后は陰徳。日と月、陽と陰のように主従がある。天下は高祖・太宗の天下であり、陛下一人のものではない」と強く諫止し、中書侍郎李義琰の同調もあり譲位は取りやめられた。
  • 開耀元(681年)年、75歳で没し開府儀同三司・荊州大都督を贈られた。臨終に「生前国に益なく、死して費えを煩わせぬよう」と葬儀の簡素化を願った遺言が伝わる。武后に忌避されながらも操行に瑕疵がなく害されなかった。

象賢

  • 孫の象賢は太子通事舎人として武后に処刑され、刑に際し激しく罵り、屍を辱められた(以後、死刑時に木丸で口を塞ぐ慣行が生まれたと伝える)。