新唐書卷一百十五 列傳第四十 狄仁傑

并州太原の人。字は懐英。大理丞など地方官・司法官を歴任し公正な裁きで知られた諫臣。武后朝で宰相となったが来俊臣に誣告され投獄され、武后への直訴で冤罪を晴らした。晩年は張柬之ら「中興名臣」を推挙し、中宗復位(唐室再興)実現の最大の功労者となった。

年表(2件)
  • 天授二年691年地官侍郎同鳳閣鸞台平章事となるが来俊臣に誣告され投獄、武后への直訴で冤罪を晴らす
  • 聖曆三年700年71歳で没し文昌右相・諡文惠を追贈される

中興の名臣

  • 并州太原の人。少年時、書に没頭し俗吏の詰問にも動じなかった逸話が伝わる。黜陟使閻立本に「滄海の遺珠」と評され并州法曹参軍。父を思う孝心(太行山で白雲を望んだ逸話)、同僚鄭崇質に代わり使者を志願した義侠でも知られる。
  • 大理丞として一年で一万七千人の獄を裁き公正と評された。左威衛大将軍権善才らが誤って昭陵の柏を伐採した罪で高宗が死罪を命じた際、「一本の柏のために二臣を殺せば後世は陛下をどう評するか」と諫めて減刑させた。左司郎中王本立の弾劾も貫徹し、朝廷を粛然とさせた。
  • 度支郎中として并州長史李冲玄の妬女祠迂回工事を「天子の行幸に風神雨神が塵を払うのに何を避けるのか」と止めさせた(「真丈夫」と称された)。江南巡撫使として淫祠千七百房を廃し、夏禹・呉太伯・季札・伍員の四祠のみ残した。
  • 豫州刺史として越王(李貞)の乱の連座者二千人の減刑を密かに願い出て流罪に減じさせ、民に慕われた(「狄使君が汝を活かした」との逸話)。宰相張光輔の軍の乱暴を「一人の越王が死んで百の越王が生まれるようなもの」と痛烈に批判し、逆に復州刺史に左遷された。
  • 天授二(691年)年、地官侍郎同鳳閣鸞台平章事。来俊臣に誣告され獄に下るが、「唐の臣として謀反は事実」と一旦認めて拷問を避けつつ、密かに帛に訴えを書いて子光遠に届けさせ、武后の直接尋問で冤罪を証明、死罪を免れた(彭沢令に左遷)。
  • 契丹の冀州侵攻時、魏州刺史として民を疲弊させる籠城策を退け、賊は自ら退いた。鸞台侍郎同鳳閣鸞台平章事として四鎮駐兵の負担軽減を上疏し、辺境より内治を優先すべきと説いた(「秦皇・漢武の轍を踏むな」)。
  • 張易之に「廬陵王の召還のみが禍を免れる道」と説き、武后に武三思立太子の議を退けさせ、王方慶と共に「双六に勝てぬ夢」を口実に太子復位の必要性を説得。廬陵王(中宗)の召還・復位を実現させた最大の功労者となった。
  • 突厥・契丹侵攻時の河北安撫大使として、脅迫による賊への協力者への大赦を上疏し実現させた。仏像造営費の民間負担にも反対した。
  • 聖曆三(700年)年、71歳で没し文昌右相・諡文惠を贈られた。張柬之・桓彦範・敬暉・姚崇ら「中興名臣」の多くを推挙した。中宗即位後に司空、睿宗は梁国公を追封。

光嗣

  • 子光嗣は仁傑の推薦で地官員外郎となり、淄・許・貝三州刺史などを歴任した。
  • 弟の景暉は魏州司功参軍として貪暴で民を苦しめ、生祠を毀されるほど恨まれたが、元和中に田弘正が生祠を再興させた。

仁傑族孫 兼謨

  • 族孫の兼謨(字汝諧)は進士に及第、令狐楚に抜擢され剛正の家風を継いだ。左蔵史の贓罪を大赦にもかかわらず糾弾を貫き、御史中丞として文宗に「梁公(仁傑)の後を継ぐ者」と期待された。江西観察使呉士矩の不正上供金流用を弾劾し、東都留守で没した。