新唐書卷九十八 列傳第二十三 馬周

馬周、字は賓王、博州茌平の人。孤児で貧しい身から中郎将常何の代作の上疏によって太宗に見出され登用された。政策建言に優れ「王佐の才」と評され、のち中書令にまで昇ったが、持病の消渴により四十八歳で没した。

年表(3件)

出自と貧窮からの立身

  • 馬周、字は賓王、博州茌平の人。幼くして孤児となり家は貧しかった。学問を好み『詩経』『春秋』をよくした。器量が大きく細かいことに拘らなかったため郷人に軽んじられた。武徳中、州の助教に補されたが政務を治めず、刺史達奚恕にたびたび咎められ職を去り密州に身を寄せた。趙仁本がその才を高く評価し旅費を厚く与えて関中に入らせた。汴州に留まった際、浚儀令崔賢に辱められ、憤然として西へ向かい新豊に宿泊、旅宿の主人に相手にされなかったが酒一斗八升を注文して悠然と独酌し人々を驚かせた。長安に着くと中郎将常何の家に身を寄せた。
  • 貞観五年(631年)、百官に得失を述べるよう詔が下った。何は武人で学問がなかったため、周が二十余の政策を代わって書き、いずれも当世の要点を突いていた。太宗が何に不思議に思って尋ねると「これは臣にはできません、家客の馬周が私に教えて言わせたのです。彼は忠孝の人です」と答えた。帝はすぐに周を召したが到着が遅く四度も使者を送って急がせた。謁見して語ると帝は大いに喜び門下省に直させる詔を下した。翌年、監察御史を拝命し使者としての務めを称された。帝は何が人材を得たことを喜び帛三百段を賜った。

貞観初期の建言

  • 周は上疏し、まず自らが孤児として忠孝を尽くしたい思いから徒歩二千里で帝の下に来たこと、抜擢の恩に報いる思いを述べた。続けて次の諸事を述べた。大安宮(太上皇の宮)が皇城の右にあり門闕が至極卑小であること、東宮が至尊より内側にあり大安宮が外にあるのは不釣り合いであり、太上皇の清倹の志を尊重しつつも門闕は高顕にして四方の望みに応えるべきと述べた。二月に九成宮へ行幸する詔について、太上皇への朝夕の視膳が果たせなくなることを憂え、還る時期を示して人々の疑惑を解くよう求めた。宗室・功臣を悉く籓国に就かせ子孫に世襲させる詔について、堯・舜の父にも硃・均のような不肖の子があった例を引き、必ずしも世官とせず、資材と邑戸を与え才能に応じて用いるべきと述べ、漢の光武帝が功臣に吏事を任せなかったことで功臣の家系が全うされた例を挙げた。皇帝が即位以来一度も宗廟の祭祀に親臨していないことを憂え、聖人の教えは自ら実践を示すことにあると述べた。人材登用については、王長通・白明達らの楽工が高位に列せられ士大夫と同席することを恥じるべきとし、金帛で優遇するにとどめ官爵は与えるべきでないと述べた。
  • 帝はこの言葉を善しとし侍御史に除した。周はさらに、夏・商・周・漢の長期政権と魏・晋以降の短命政権の違いは徳の積み重ねの有無にあるとし、隋末の困窮に比べ現在も民の徭役負担が重く百姓が怨嗟していること、堯・禹の質素倹約や漢文帝・景帝の倹約が民を安んじた例を引き、皇子・妃主の服飾の華美を批判した。人主は先例を教訓とすべきだが自身の失敗には気づきにくいものだと述べ、貞観初年の倹約の精神に立ち返ることを勧めた。また賈誼が漢文帝に述べた「痛哭すべきこと」を引き、諸王が年少なのはよいがその長大後を憂うべきと述べ、諸王への過度の寵愛を戒めた。最後に、天下の治は刺史・県令の人材にかかっており、内官のみを重んじ地方官の選任を軽んじる風潮を改めるべきと結んだ。
  • 上疏に対し帝は称賛し、給事中に抜擢、のち中書舎人に転じた。

中書令としての活躍と早世

  • 周は奏事に優れ機弁明鋭で事の要を捉え、処置は周到で時の評判を集めた。帝は常に「私はしばらく周を見ないと彼を思い出す」と語った。岑文本は親しい者に「馬君の論事は文が的確で理に適い、一言も損益するところがない、聞いていて疲れを忘れさせる、蘇秦・張儀・終軍・賈誼にも通じるものがある。しかし鳶肩火色(人相学でいう急速に昇る相)で、昇るのが速い者は長続きしないのではと恐れる」と評した。まもなく治書侍御史・知諫議大夫を兼ね晋王府長史を検校。王が皇太子となると中書侍郎・太子右庶子を兼ねた。十八年(644年)、中書令に遷り庶子を兼任し続けた。太子司議郎の官職が新設された際、帝はこの官の位を高く扱い、周は「私の資品が思いのほか高いのが残念だ、この官を経験できない」と嘆いた。帝の遼東親征に際し太子を輔けて定州に留まった。帰還後、吏部尚書を摂し銀青光禄大夫に進む。帝はかつて飛白書で「鸞鳳が霄に沖するには羽翼が必要、股肱の寄託には忠と力こそ肝要」と書いて周に賜った。
  • 周は消渴(糖尿病)を長年患っていた。帝が翠微宮に行幸した際、周のために良い地を選んで邸を建て、尚書に食事を届けさせ上医の使者に看護させ、自ら薬を調合し太子にも見舞わせた。病が重くなると、周は自ら上奏文を全て焼き捨て「管仲・晏嬰は主君の過ちを暴くことで死後の名を求めたが、私はそれをしない」と語った。二十二年(648年)卒、享年四十八。幽州都督を贈られ昭陵に陪葬された。

人物像

  • 当初、帝は周に厚遇し、周も自負が強かった。御史であった頃、人に頼んで絵図を持たせ邸宅を購入させようとしたところ、彼が書生上がりで元来資産がないことを知る人々は密かに笑ったが、ある日良い邸宅があると聞いて代金二百万を帝に上聞すると、詔で有司が代金を給し奴婢・調度も賜られたため人々はようやく悟った。周は郡県を巡るたびに必ず食事に鶏を進めさせたため小吏に訴えられたが、帝は「朕が御史に肉食を禁じているのは州県に費用を広げることを恐れるからだ、鶏がどうしてそれに当たるのか」と述べ訴えた吏を叱った。選挙を統括した際にも浚儀令を廃した処分を貫いた。京師では以前朝夕に呼び声で人々に時刻を知らせていたが、周の建言で太鼓に代え、俗に「冬冬鼓」と呼ばれた。品官の衣服は従来黄・紫のみだったのを、三品は紫、四五品は硃、六七品は緑、八九品は青と定めたのも周の建言による。城門の出入りは左から入り右から出る制、駅伝による緊急通報の制、居住者からの地租徴収、宿衛の大小番直の制、駅馬の尾を切る制、城門・衛舎・守捉士を月ごとに諸県へ配分し過失を防ぐ制、いずれも周が建言したものである。周の死後、帝は深く思慕し方士の術で姿を見ようとしたほどだった。高宗の即位後、尚書右僕射・高唐縣公を追贈。垂拱年間、高宗廟廷に配享された。

周子 載

  • 子の載、咸亨年間、司列少常伯となり裴行儉と選事を分掌した。吏部の事を語る者は「裴・馬」と称した。雍州長史で終わる。

史論

  • 賛にいう。周が太宗に遭遇したことは、まことに異例というべきである。一介の草莽から天下の事を論じ、あたかも朝廷に長く仕え憲章に通じた者のようであった、王佐の才でなければどうしてこれに至れようか。傅説が岩場で築城していたことや呂尚が渭水で釣りをしていたことと、周の当初の境遇との間にどれほどの違いがあろうか。帝が事業の樹立に鋭意であったのに対し、周が建言したことはいずれも一時の急務を突いており、明君が聖臣を得て君臣の間が膠漆のように固く結ばれた、遭遇の遅かったことを恨むのももっともである。しかし周の才は傅説・呂尚には及ばず、後世に称える人がいなかった、惜しいことである。