新唐書卷九十八 列傳第二十三 王珪

王珪、字は叔玠。代々郿に住んだ名族の出で、隠太子に仕え一時流されたが、玄武門の変後は太宗に信任され諫議大夫・侍中を歴任した直諫の臣。清廉実直な人柄で知られた(?–639年、享年六十九)。

年表(2件)

出自と唐初の重用

  • 王珪、字は叔玠。祖父の僧辯は梁の太尉・尚書令。父の顗は北齊の樂陵郡太守。代々郿に住んだ。性格は沈着で志操が正しく、置かれた境遇に恬淡とし安易に人と交わらなかった。隋の開皇十三年(593年)、秘書内省に召され群書の校訂にあたり太常治禮郎となった。季父の頗は儒学に通じ人物鑑識にも優れ、珪を特に高く評価していた。頗は漢王諒の反乱に連座して誅殺され、珪は終南山に十余年亡命した。高祖が関中に入ると李綱が推薦し世子府諮議参軍事に任じられた。建成が皇太子となると中舎人を授かり中允に遷り、厚い礼遇を受けた。太子と秦王の間に隙が生じると、帝は珪が輔導を怠ったとして巂州に流した。太子誅殺の後、太宗は諫議大夫に召した。帝はかつて「正しい主が邪臣を御しても治世は成らず、正しい臣が邪主に仕えても治世は成らない、ただ君臣が同徳であってこそ天下は安んじる。朕は不明だが、諸公がしばしば諫正してくれれば天下を治めることができるだろう」と語った。珪は「古の天子には争臣七人があり、諫めが用いられなければ次々に死をもって諫めました、陛下が聖徳を開き諫言を採用される今、臣は狂瞽の言を尽くして万分の一なりとも助けとなりたい」と進言した。帝は許し、諫官が中書・門下および三品官とともに閤に入ることを詔した。珪は誠を尽くし善言を進め、常に規範を示し帝の信任を深めた。永寧縣男・黄門侍郎に封ぜられ侍中に遷った。

直言の数々

  • ある日進見すると、帝の側に美人が侍っており、これは廬江王瑗の姫であった。帝は「廬江は無道にも夫を殺してその妻を奪った、滅びぬわけがあろうか」と指し示した。珪は席を避けて「陛下は廬江のこの行いを是とお考えですか、非とお考えですか」と問うた。帝が「人を殺してその妻を奪ったことを、なぜ朕の是非を問うのか」と言うと、珪は斉桓公が郭の父老に亡国の理由を問い「郭君は善を善とすることができても用いず、悪を悪とすることができても去らなかったから滅びた」と答えた故事を引き、「今陛下は廬江の滅亡の理由を知りながら、その姫をなお側に置いておられる、これは陛下がそれを是とされていることになりましょう、もし本当に非と知っておられるなら、悪と知りながら去らないということです」と述べ、帝はその言葉に嘆じた。
  • 帝が太常少卿祖孝孫に宮中の音楽家に楽律を教えさせたが技芸が上達せず孝孫はしばしば譴責された。珪は温彦博とともに「孝孫は謹厳な人物です、陛下が女楽を教えさせながら譴責されるのは、天下に士を軽んじると思わせないでしょうか」と進言した。帝は怒って「卿らはみな朕の腹心なのに、下に阿って上を欺き、人のために遊説するのか」と叱ったが、彦博は謝罪した。珪は謝らず「臣は前宮(隠太子)に仕え罪は死に当たりましたが、陛下は性命を憐れみ枢密に置いて忠効を求められました、今、私心をもって臣を疑うのは陛下が臣に背くのであり、臣が陛下に背くのではありません」と述べた。帝は黙って恥じ入り、この件を止めた。翌日、房玄齡に「昔武王は伯夷・叔斉を用いず、宣王は杜伯を殺した、古来帝王が諫言を受け入れるのは難しい。朕は日夜前聖に及ぼうと励んできたが、昨日珪らを譴責したのは深く悔いている、公らも諫言を怠ってはならぬ」と語った。

人物評と魏王府での役割

  • この頃、珪は玄齡・李靖・温彦博・戴胄・魏徵とともに政務を輔けた。帝は珪が人物鑑識に優れることから「卿は玄齡らの才を評してみよ、また自らを彼らと比べてどうか」と問うた。珪は「懸命に国事に励み知って行わないことがないのは臣は玄齡に及びません、文武を兼ね将となり相となる才は靖に及びません、上奏を詳細明瞭にし出納に誤りないのは彦博に及びません、繁務を処理し衆務を挙げるのは胄に及びません、諫諍を心とし君が堯・舜に及ばないことを恥じるのは徵に及びません、しかし濁を挙げ清を揚げ悪を疾み善を好む点では、私は数子に一日の長があります」と答え、帝はこれを称えた。玄齡らも自らの長所を尽くした評だとして「確論」と称した。
  • 郡公に進封。禁中の秘語を漏らした罪に連座し同州刺史に左遷。帝は名臣を惜しみ間もなく礼部尚書兼魏王泰の師として召し戻した。魏王は珪を見るとまず拝礼し、珪も師として自らを処した。王が忠孝の要を尋ねると、珪は「陛下は王の君、事えるには忠を尽くすことを思うべきです。陛下は王の父、事えるには孝を尽くすことを思うべきです。忠孝は身を立てる基であり、名を成す基です」と答えた。王が「忠孝についてはうかがいました、次に学ぶべきことを聞きたい」と問うと、珪は「漢の東平王蒼は『善を為すことが最も楽しい』と言った、王もこれを心に留めるように」と答えた。帝はこれを聞いて「わが子はもう過ちを犯すまい」と喜んだ。
  • 子の敬直は南平公主を娶った。当時、諸公主の降嫁では帝の娘の貴さから舅姑への謁見の礼が行われないのが常だったが、珪は「主上は法度に従っておられる、私も公主の謁見を受けるべきだ、これは自分の栄誉のためではなく国家の美風を成すためだ」と語り、夫人とともに堂上に座し公主に笄を執らせ盥饋させてから退けた。以後、降嫁した公主が舅姑のある場合は婦礼を備えるようになり、珪がその範を開いた。

晩年と評価

  • 十三年(639年)、病に倒れた。帝は公主を邸に遣わして見舞わせ、民部尚書唐儉を遣わして薬膳を調節させた。卒、享年六十九。帝は素服して哭し、魏王に百官を率いて哭泣に臨ませる詔を下した。吏部尚書を贈られ諡は懿。
  • 珪は幼くして孤児となり貧しかったが、人から施しを受けても遠慮せず、貴顕してからは厚く報い、既に亡くなった恩人でもその家族を必ず助けた。性格は苛察でなく官にあっては綱維を挙げることを務め、些末な非は問わず、僕妾にすら喜怒を見せなかった。寡嫂を奉じ家事は必ず相談してから行った。孤児となった甥を教え育てることは実子と変わらなかった。宗族の困窮者を助け自らの生活は質素にした。家廟を建てず四時の祭祀は寝室で行っていたため有司に弾劾されたが、帝は廟を立ててこれを恥じさせ罪には問わなかった。世は珪が礼にかなわぬ倹約をすると評した。
  • かつて隠棲していた頃、房玄齡・杜如晦と親しく、母の李氏が「お前は必ず貴くなるだろうが、交わっている人がどのような者か分からない、試しに一緒に連れてきなさい」と言った。玄齡らが訪れた際、李氏は密かに見て大いに驚き、酒食を用意させ終日歓談し「あの二人の客は公輔(大臣)の才がある、お前が貴くなることは疑いない」と喜んだ。敬直は南城縣男に封ぜられたが、後に皇太子承乾との交わりに連座し嶺外に流された。珪の孫は燾・旭。

珪孫 燾

  • 燾は至孝の性質で徐州司馬となった。母の病の際は一年を通じて帯を解かず、湯薬を煎じて味見した。しばしば名医を訪ねてその術を極め、学んだことをもとに書を著し『外臺秘要』と名づけた。討究は精緻で世の宝とされた。給事中・鄴郡太守を歴任し治績で知られた。旭は『酷吏傳』に見える。